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ヤマトの章 —2 魂の行方
僕が今生きている国は、間違いなく日本みたいだ。あれからどの位の時間が経ったんだろう。世の中はあの時代とは比べ物にならない位、便利で平和な時代になっていた。
ああ…今の時代で千尋と同じ人間として側にいられたらどんなに良かっただろう。時々、僕にはそんな欲深い考えが浮かんでしまう。僕は罪人。あの武士を殺し、咲を死に追いやってしまった張本人だというのに。
だからこれ以上高望みはしてはいけないんだ。だって犬の姿になってしまっても今は千尋の側にいられるのだから。
でも、この身体になって一つ良い事を発見した。それは、その人物の持っている魂?のようなものがオーラとなって身にまとわりついてるのが見えるようになった事。例えば素晴らしく善人のオーラは金色に輝き、悪人のオーラはどす黒いものや、もしくは濃いグレーのようなもの…その心が良ければ良いほど光は輝き、逆に悪い心であればあるほど、まがまがしいオーラを身にまとっている。この力さえあれば悪い人間を察知して千尋を守ってあげる事が出来るかもしれない。勿論、千尋や幸男さんは善人のオーラの持ち主だったけどね。
千尋は両親を亡くして、幸男さんとの二人暮らしだった。小さい時から家事をやっていたのだろう、千尋はすごく料理が上手だった。きっと将来は良いお嫁さんになるだろうな。…出来れば僕のお嫁さんになって貰いたかったなあ。
いつも僕を散歩に連れて行ってくれるのは幸男さんだった。
商店街を抜けて、大通りを行くとやがて大きな河原に出る。そこで幸男さんが僕を遊ばせてくれる。幸男さんが投げたボールを走ってキャッチする。こんな単純な遊びが大好きになるなんて。やっぱり僕の本質は犬なんだなあと改めて思う。運動が終わると幸男さんはいつも僕にこう言った。
「なあ、ヤマト。俺はもう年だ。千尋には内緒だが、実はあまり心臓が丈夫じゃないんだ。だから俺に何かあった場合は代わりにお前が千尋の側にいて、あの子を守ってやってくれよ」
そして幸男さんはいつも僕の頭を撫でるのだった。
(勿論!千尋の事は僕に任せてよ!)
そう言うものの、僕の口から出てくるのはワンワンと犬の鳴き声だったのだけど、それでも幸男さんには通じたのか、嬉しそうに言ってくれた。
「そうかそうか、お前に任せれば安心だな。あの子は明るくふるまっているけど、本当は人一倍寂しがり屋だから、俺が死んだ後の千尋が心配だったんだ。だからヤマトを家族として向か入れたんだ」
…そして数年後、幸男さんは亡くなった。
あの日の事は今でも忘れられない。幸男さんはその日は病院に行く日だった。
いつものように出掛ける準備をしている時に、突然幸男さんは胸を押さえて苦し気に呻くと倒れてしまった。
(幸男さん!幸男さん!しっかりして!)
僕は必死で呼びかけた。僕のワンワンという吠え声が余程うるさかったのか、近所のおばさんが様子を見に来て、倒れている幸男さんを見ると仰天して、救急車を呼んでくれた。でも…幸男さんは手遅れだった。
この日、千尋は独りぼっちになってしまった。僕を抱きしめて泣く千尋。ああ…僕に君を抱きしめてあげられる腕があったらどんなに良かったか。だから代わりに千尋の顔を舐めた。大丈夫。僕は何があっても君を一人になんかさせないよ。
千尋は泣き笑いの笑顔を浮かべると、こう言った。
「ああ、そうだったね。私にはヤマトがいるものね。独りぼっちじゃなかったんだ。ありがとう、ヤマト」
この日を境に、僕は片時も千尋の側から離れないように努めた。仕事先の花屋は勿論、新しくお花を飾る仕事が始まった病院にも付いて行くようになった。僕はいつの間にかここの病院の人達に気にいられて、セラピードッグ?にさせられていた。でも人の相手をするのはちっとも苦じゃない。何より千尋が一緒だからね。
そう言えば、ここで働いている一人の若い男性が、どうも千尋に好意を持っているみたいだ。僕なら、好きなら好きってはっきり言うのにどうしていつまでも告白しないんだろう?言葉にしないと想いは伝わらないと思うんだけどな?彼はお年寄りの人達に人気があるから決して悪い男じゃないと思う。それに嫌なオーラもまとっていないし。
けれどもそれと同時に僕がこの病院に通うようになって、嫌なオーラを持つ人物を発見した。それは自動販売機の飲み物の入れ替え作業を行っている男だ。この男のまとっているオーラが尋常じゃない。黒くてまがまがしいオーラだ。いつも千尋の事を横目で嘗め回すように見ている。やめろ、千尋をそんな目で見るなんて僕は絶対許さないぞ。
****
徐々にあの男が千尋に触手を伸ばすように迫ってきた。大量の青い薔薇に不気味なメッセージを送りつけて千尋を怖がらせるし、ポストには奇妙な物を投函してくる。最低な男だ。千尋や店長さんはまだ相手が誰だか分かっていないけど、僕には誰がこんな真似をしているのか全てお見通しだった。僕に人の言葉をしゃべれる口があったなら、犯人はこの男ですって言えるのに。だから僕に出来るのは一つだけ。全力で千尋を守る。あの男のまとうオーラは益々闇が深くなっていく。近いうちに何か千尋にしかけてくるかもしれない。
用心しておかないと…。
数日後、ついに恐れていた事が起きた。あの男が千尋の家に直に上がり込んできたのだ。
やめろ!千尋に近づくな!
僕は低い唸り声をあげて相手を威嚇した。千尋は悲鳴を上げないように震える身体で口元を押さえて必死で恐怖と戦っている。
ギシッギシッ…
廊下を踏みしめる音が聞こえる。ついにあいつが上がり込んできたんだ。全身にあの時と同じ怒りがみなぎるのを感じた。千尋を怖がらせる人間はたとえ何人とも許さない。
「ガウッ!!」
僕は吠えて廊下目指して駆けだした。
「うわ!」
叫んだ男はやはりあの自動販売機の男だった。僕は構わず男の腕に噛み付く。
「くそっ!は・離せ!」
男は腕をブンと強く降って僕を振り落とし、一目散に逃げだした。逃がすものか!必死で逃げる男を僕はどんどん走って距離を縮める。大勢の人達が僕と男の様子を恐怖に震えながら見ている。人間の目から見たその時の僕はまさしくただの狂犬に見えたのかもしれない。町中に出た男は歩道橋を駆け上る。当然僕もその後を追った。
「ウウ~ッ!」
低い唸り声をあげて追い詰める僕。その時だ。
「ヒイイ!ば・化け物!」
僕を見て叫んだ。化け物?この僕が?でも僕の全身から赤い炎のようなものがユラユラ揺れているのが見て取れた。まさに炎をまとった化け物だ。
「や、やめろ!来るなああーっ!!」
男は絶叫すると足を踏み外し真っ逆さまに階段から転げ落ちた。僕は上から見た男の様子を見ると不自然に手足が折れ曲り、地面にゆっくりと赤い血が流れだしてくるのが分かった。
「キャーッ!!」
「大変だ!人が落ちたぞ!!」
下では大騒ぎになっている。誰かが歩道橋の上にいる僕を指さした。
「あの犬だ!あの犬がこの男性を突き落としたんだ!」
「保健所に連絡だ!捕まえないと!」
このままではまずい。千尋と引き離されてしまう。僕は反対側の歩道橋を駆け下りて必死で走った。捕まったら駄目だ!滅茶苦茶に走った、その時―。
僕の目の前に眩しい光と共に1台の車が突っ込んできた。
ドンッ…!!
激しい衝撃が僕を襲った。僕は宙を舞い、地面に叩きつけられた。余りの痛みに全身が悲鳴を上げている。倒れた僕の周りに人々が集まってきた。僕を轢いたらしい、車の運転手が車から降りて来るのが分かった。
「あの…突然犬が飛び出してきてしまって、ついうっかり轢いてしまいました」
集まっている人達に説明しているようだ。
「いや、いいんだ。この犬はさっき人間を襲ってたんだよ」
「いずれにせよ、保健所に連れて行かれて殺処分されてただろうさ」
「とりあえず、保健所に通報するか…」
段々人々の声が遠くなっていく。
ああ…僕はまた死んでしまうのだろうか。千尋を残して…。
その時、自分の身体から魂が抜けだすのを感じた。いつの間にか僕は空中を漂い、血まみれになって倒れている僕自身を見下ろしていた。嫌だ、このまま千尋と会えないまま死ぬなんて。せめて千尋を一目見てからこの世を去りたい。
僕はフワフワ漂いながら千尋の家を目指した。その時—。
僕は見た。同じようにフワフワと漂っている魂を。僕は急いでそこへ向かった。その魂はあるマンションの一室から糸の付いた風船のように浮かんでいた。迷わずその部屋に入ってみる。そこには一人の若い男性が横たわっていた。部屋の中は何も無かった。ただ側には薬が入っていたのだろうか?空き瓶が転がっているだけ。まだ彼の身体と魂はかろうじて1本の糸で繋がっていた。
僕は試しに話しかけてみた。
≪ねえ、その身体いらないなら僕に頂戴≫
すると意外な事にその魂は反応して僕に答えた。
≪誰だ、てめえ。ふざけるな!これは俺の身体だ。誰にもくれてやるものか≫
≪だっていらないから自分で死のうとしたんでしょう?≫
≪…≫
≪どうして死のうとしたの?≫
≪俺は…酷い裏切りにあったショックで目が見えなくなった。医者は何とも無い、精神的ショックが治れば目も見えるようになるって言うけど、そんなの信じられるか。真っ暗闇の世界でこの先生きてなんかいけるかよ≫
≪でも、僕がこの身体に入れば目が見えるようになるかもしれないよ?≫
≪うるさ…い。もう俺に構う…な…≫
男の魂の糸が切れそうになっている。このままじゃまずい!そう思った僕は強引に彼の中に入り込んだ。
≪てめ…!何す…!≫
僕が入り込んだ事で男の魂は深く僕の中に押し込められたようだった。
そして、不思議な事が起こった。僕と男の身体が分離したのだ。
気が付くと僕はこの男の身体で、眠り続けているもう一人の男を見下ろしていた―。
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