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ヤマトの章 —8 またいつか出会う日まで
僕は憔悴しきっていた。祐樹にこれまでの事全てを話し終えた頃にはもう夕方になっていた。祐樹は最後まで黙って僕の話を聞いてくれた。
「それでお前は本当にいいのか?」
「いいんだ。それより今迄本当の事を言わないでごめん」
でも僕はまだ祐樹には内緒にしている事がある。もうすぐ渚の目が覚める事を。
「別に…もういいさ。それにしてもあの病室で眠っている渚を見なければ未だに到底信じられる話じゃないよな」
祐樹はコーヒーを飲みながら言った。
「でも、ありがとう。僕の話を信じてくれて」
「まあ…俺は今のお前嫌いじゃないしな?あ、勘違いするなよ?!別に変な意味で言ってるんじゃないからな!」
「大丈夫、分かっているよ」
僕は笑いながら言った。
「それじゃ、お前の言う通り渚の身元確認の手続きをしてきても大丈夫なんだな?」
祐樹は身を乗り出して僕に尋ねてきた。
「うん、お願いするよ。いつまでも身元不明扱いだったら病院側に迷惑がかかるし、彼自身も気の毒だからね。と言っても間宮渚の身体を借りてる僕が言うセリフじゃないね」
「そっか…。お前がそこまで言うなら、もう覚悟は決めたって事だもんな。それにしてもあいつ、いつ目を覚ますんだろうなー。あ、ところで渚の目が覚めたらお前は一体どうなるんだ?まさか消えてなくなったりしないよな?」
「う~ん、それはどうなんだろうね?消えるかもしれないし、消えないかもしれない。自分でも良く分からないんだよね」
僕はまた一つ嘘をついてしまった。
「もう一つだけお願いしてもいいかな?」
僕は祐樹に言った。
「何だ?お願いって」
僕は先ほど書いた手紙を祐樹に渡した。
「この手紙、預かって欲しいんだ」
「手紙?誰に書いた手紙なんだ?」
「僕の大切な人に宛てたものだよ」
曖昧に答える。
「何だよ、それじゃ分からないじゃないかよ」
「大丈夫、その時がくればきっと分かるから」
「お前な…その意味深な言い方やめろよ。気になって仕方ないじゃないか」
それでも祐樹は手紙を預かってくれた。
そして僕と祐樹は店を出た。帰り際祐樹は僕に言った。
「おい、お前。今度里中…だっけ?連れて二人で俺の店に飲みに来いよ!いいか?必ずだぞ!」
僕はそれには答えず、笑って手を振った。ごめん、祐樹。きっとその時はもう二度と来ないよ。
僕は、この短かった数か月本当に千尋と一緒にいられて幸せだった。それに僕は罪人だ。これ以上の幸せを望んじゃいけないと思う。ただ最後に一つだけ、僕は千尋の気持ちを確認したい。例え彼女が僕の事を何とも思っていなかったとしても、やっぱり大好きな千尋の気持ちを知っておきたい。
今夜のメニューは今までで一番腕を振るった。だってもしかしたらが最後の晩餐になってしまうかもしれないからね。全ての料理を作り終えると僕は千尋を迎えに花屋に向かう。店の入り口前で千尋が出てくるのを待ちながら今迄二人で過ごした時間を振り返る。どれもみんな素敵な思い出ばかりだった。
千尋が店から出て来た。
「お疲れ様、千尋」
今夜の千尋は何故かいつも以上に機嫌が良くて饒舌に話す。僕は黙って千尋の話を聞いている。出来る事ならずっと千尋の側で声を聞いていたい
と願いながら。
家に帰り、僕は千尋に自分の作ったとっておきのディナーをお披露目する。
千尋は目を丸くして驚き、喜んでくれた。僕は無理に笑顔を作って千尋と会話する。でも時々無性に悲しい気持ちがこみ上げて来てしまう。最後の瞬間まで僕の瞳に千尋の姿を焼き付けておきたい…。
二人きりのディナーはもうすぐ終わる。恐らくこれが二人で食事をする最後のディナーになるだろう。僕はいつ話を切り出そうかと考えつつも、中々言い出せずにタイミングを失ってしまった。そうだ、片付けが終了して落ち着いたら千尋に言うんだ。僕は千尋が大好きだ、千尋は僕の事をどう思ってくれている?って。
そして幸せなひと時のディナーが終了した。今夜は二人で仲良く後片付けをする。千尋は食器を洗い、僕は洗った食器の後片付けの担当だ。食器を持って棚にしまおうとしたその時、僕の両腕に激しい激痛が起こり、両方の腕がみるみる消えていく。
「!」
行き場の無くなった食器は床に落ち、派手な音を立てて粉々に砕け散った。
「渚君?!」
食器を洗っていた千尋が音に驚き、慌てたように僕に駆け寄る。
「大丈夫?!渚君、怪我してない?」
千尋は心配そうに僕を覗き込む。
「あ・ああ…千尋。ごめん…食器割っちゃって。ちょっと手が滑って」
咄嗟に僕は腕を後ろに隠して消えてしまった腕を千尋に見せないようにした。
「何言ってるの、食器なんかどうだっていいよ。それより顔色が悪いけど本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、割れた食器片づけて来るから千尋は洗い物の続きしてて」
よし、僕の両腕の痛みは消えたし感覚も戻ってきている。
「うん…。分かった」
千尋は不承不承頷いた。
何とか千尋をごまかせたみたいだ。僕は割れた食器をほうきで掃いて新聞紙で包むとビニール袋に入れて玄関の外へ置きに行く。その時、視界がグルリと反転した。
<え?>
今迄に一度も経験したことの無い感覚に僕は焦った。もしかして…これでもう最後になってしまうのか…?ここで僕の意識は一旦途絶えた。
次に目を覚ましたのはあの見覚えのある病室。僕は病室のベッドから起き上がった。大丈夫、まだ僕の意識は残っている。でもこの先、どうすればいいのか?病室を抜け出すか?いや、そんな事をしたら大騒ぎになってしまうし、もう僕の身元は明かされている。その証拠にベッドのネーム札には「間宮渚」とはっきり書かれているじゃないか。
その時、ふいに僕の耳に千尋の声が聞こえて来た。必死になって僕の事を探している。まだ千尋は僕の事を忘れていないんだ!僕は強く願う。どうか、もう一度だけ千尋の元に戻して下さいと…この器の持ち主、間宮渚に向かって。
すると、また僕の視界が反転した—。
気が付いて見ると僕は自分の部屋に立っていた。僕の目の前には放心状態の千尋が背中を向けて座り込んでいる。
「千尋…」
僕はそっと名前を呼んだ。すると千尋は勢いよく振り返り僕を見つめる。その目には涙が溜まっている。次の瞬間、千尋は僕の胸に飛び込んできた。え?千尋。突然消えて、また現れた僕の事が君は怖くないのかい?
「ち・千尋…?」
僕は戸惑いながらも肩を抱いた。
「好き…なの」
千尋は僕の胸に顔をうずめたまま言った。
「え?」
聞き間違えじゃないだろうか?
「私、渚君が好き…。だから、何処にも行かないで。側に居て…?」
千尋は泣いていた。
「私…!」
そこから先は言わせなかった。何故なら僕は自分の唇を千尋の口に押し付けたからだ。だって千尋が僕を好きだって事が分かったのだから、これ以上言葉にする必要なんて無いよね。どんなにそのセリフを千尋の口から聞きたかった事か。僕はゆっくり唇を離して千尋を見つめた。千尋は目を見開いて驚いたように僕を見つめている。ああ、やっと君の気持ちを知る事が出来た。
「僕も、千尋の事が大好きだよ。もうずっと前から」
そして胸に埋め込まんばかりに千尋を強く抱きしめると、再び口付けした。千尋も僕の背中に腕を回して応えてくれてる。それが何よりも嬉しかった。夢ならどうか覚めないでと切に願う。深く…長い口付けを終え、僕は千尋の目をじっと見つめると言った。
「今夜は…ずっと僕の側にいてくれる?」
はっきり言葉にはしなかったけど、僕は心の中で千尋に問いかける。
<千尋、僕は君と愛し合いたい>と…。
「私も、今夜は渚君の側から離れたくない…」
千尋は涙で濡れた瞳で僕を見つめ、自分の方から目を閉じた。僕は再び千尋に唇を寄せた—。
この日の夜の事は一生忘れる事は無いだろう。例え、僕の存在が完全にこの世から消え、千尋の記憶から忘れられたとしても、僕と過ごした時間のほんの少しの記憶だけでも心のどこかに残しておいて欲しい…。だから僕は千尋の身体に、心に僕の事を刻み付ける。
月明りに照らされた千尋の身体はとても綺麗だった。僕は千尋を抱きしめ、唇を重ね、二人で何度も名前を呼びあい、空がうっすらと白むまでお互いの気持ちを確かめ合った―。
千尋は僕の腕の中で静かに寝息を立てている。そんな千尋を僕は愛し気に見つめる。…でももう限界だ。徐々に僕の身体が、魂が消えていくのを感じる。
千尋が目を覚ますころには僕の身体は完全に消え去っているのだろうな。けれど僕の心は嘘のように穏やかだ。あれ程この世から消えてしまうのを恐れていたはずなのに。だけどそれはきっと千尋と思いが通じ合ったからなんだと思う。僕はもう、思い残す事は何もない。
欲を言えば本当は千尋が目覚めるまでは側にいさせて欲しかった。でもどちらが千尋にとって幸せなんだろう?君が目覚めた時僕が消えていたら君はどんな反応をする?でもそんな事考えるのも無意味な事なんだろうね。だって僕には分かってる。僕の身体は無に帰る。千尋の知っている間宮渚は永遠にこの世から消え去るのだ。当然千尋が僕と過ごした時間も全て消えてしまうだろう。
だから、このまま消え去るのが一番千尋を傷つけなくて済むのだと思うんだ。
さよなら千尋。
愛してるよ。
だからどうか僕がいなくなっても幸せに暮らしてね。
でも大丈夫、きっとまた未来で会える。
それは近い将来かもしれないし、ずっと遠い未来かもしれない。
だって何百年も前に同じ時間を生きていた千尋と、この時代で出会えたのだから。
姿や形が変わっても、魂は決して変わらない。
君がどんな姿になっていたとしても必ず僕は君を見付けて見せるよ。
その時まで、待っていてね・・・。
そして僕は消えた—。
****
一方、その頃渚の入院している病室では…。
もうすぐ夜明けが近い時間…巡回している看護師が渚の部屋に入ってきた。
「え~と、患者氏名は間宮渚、23歳。入眠中…と。あら?」
看護師は渚の顔をじっと見た。
「え…?嘘でしょう…?」
ベッドで眠っている渚の両目からは涙が流れている。
「もしかして患者さんの意識が戻ったの?!た・大変!!」
看護師は慌てて病室を飛び出して、そこから先は医師や看護師達が渚の部屋に駆けつける騒ぎとなった―。
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