出発の日

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出発の日

“ブオォォン!”  鈍い重低音とともにバスはゆっくりと走り出した。未舗装の道から土煙が舞い上がり、マフラーからディーゼルエンジン特有の真っ黒い排気ガスがモクモクと吹き出していた。  その様子をバスの一番後ろの席で、進行方向に背を向けながら、席に膝立ちしていた五歳の私は大きなリアガラス越しに眺めていた。私にとって生まれて初めて乗る乗り物がこの時のバスだったので興奮して、ワクワクを抑えられなかったのだった。  普段と変わらない赤褐色の大地に大小様々な大きさの岩石が転がっているだけなの、いつもの風景がバスの車窓から見ると、妙に新鮮に映り、特別な気がして、幼き私の心を躍らせたのだった。  だが、そんな私の隣には、いつに無く仏頂面(ぶっちょうずら)の父と悲しげな表情を浮かばせる母が座っていて、私にきちんと席に座るように(うなが)していた。だが、幼き私は『外の風景が見たい!』と駄々をこねた。すると父は無言で私を自分が座っていた窓際の席に座らせてくれた。私は父が座っていた窓際の席で外の風景を夢中になって眺めていた。  バスは穴ボコだらけの凸凹(でこぼこ)道を進んで行った。時折、私達を宙に浮かすほど上下に揺れだが、幼き頃の私にとっては、それが何か遊園地のアトラクションのように思えて楽しかったのだった。この頃は、まだまだ初めての外出を楽しんでいて、行き先とこれからの事について両親から事前に話を聞かされていたはずなのだが、幼き私には理解出来ていなかったし、全く覚えていなかったのだ。  数時間ほど走るとバスは停車した。そこは相変わらずの赤褐色の大地と岩石があるだけの地平(ちへい)に五、六軒のテントの様な住居が建っていた。それは私たち家族が暮らしていた家と大体同じ様な造りであったが、煙突の形や長さ、色合いなどが若干違っていたのを今でも覚えている。  バスのドアが開くと、十数人が乗り込んできた。悲しげな顔をした老人、不満そうな表情のオジさん、泣いている娘、無邪気な子供らからなる大家族だった。幼き私は初めて観る両親以外の人間に緊張して、(たちま)ち縮こまってしまった。先程までワクワクして、はしゃいでいたのがが嘘の様に大人しく座席に座って下を向いていた。  乗り込んできた人達は私達が座っていた一番奥の席に詰めて座ってきた。軽い挨拶を交わす程度で、世間話やこれからの事については一切話さなかった。ただ大人しくバスに座って、大きく揺らされているだけ。幼き私は大人しく外の風景を眺めるだけになっていた。  私達家族がバスに乗り込んでから七日が過ぎた。バスはあれからも不定期に停車して、その(たび)に数人から十数人の家族と思しき老若男女が乗り込んで来た。そして彼らは例外無く悲しそうな大人と無邪気な子供に分かれていた事が印象的だった。  当の幼き私はとゆうと、流石に七日もバスで凸凹の道を揺られていると、お尻が痛くなり、代わり映えのしない赤褐色の大地と岩石だけの風景にも嫌気がさしてきていた。そして、この七日間、いつもと様子の違う両親にただならぬ違和感を感じた幼き私は無闇矢鱈に話しかける事をしなくなっていた。  だが、それもこの日、遠目に空港が見えてくると、幼き私は再び興奮して、ソワソワし始めた。先程までとは打って変わって、席の上で立ち上がったり、キョロキョロと辺りを見回したりし始めたのだ。両親はそんな幼き私を制止しようとしていたが、七日間の鬱憤(うっぷん)もあって、幼き私は言う事を聞かなかった。そうこうしている間にも、バスはどんどん空港へと近づいて行った。  バスは空港の数百メートル手前で停車した。もうこの辺りまで来ると、地面はアスファルトで舗装されていて、空港関連の建物や施設がいくつか建っていた。幼き私は初めて見る建築物に目を輝かしていた。赤褐色の大地の中に突如として現れた空港は、幼き私のこの七日間の疲労を一気に吹き飛ばすのには十分だった。  幼き私達が乗ったバスの前には違うバスが停まっていた。そして、そのバスの前にも、さらにその先にもバスはズラリと並んで、空港の中へと続いていた。幼き私はもちろん初めて見るそんな光景にも圧倒されているのだった。  数時間をかけてバスはゆっくりと進み、やがて幼き私が乗るバスも空港の敷地内に入って行った。バスは今度こそ目的地に到着したのだ。扉が開くと二人の空港のスタッフが下車を促してきた。乗客はスタッフの言う通りに前から順にバスを降りていく。そして一人一人に何やら見慣れない機械を右の手首を当てらててゆく。  今となってはその行為が個人識別用のマイクロチップのデータを読み取っていた作業だという事を承知(しょうち)しているが、当時の幼き私にはその光景も不思議で仕方なかった。そして、このバスに乗っていた人は誰一人としてマイクロチップを埋め込まれていなかった。当然、私の番が回って来て、右手首に機器をかざされても反応は無かった。  バスに乗っていた全員はスタッフに言われるまま、後をついて行く。周囲には幼き私達と同じ様にバスで空港まで来た人達でごった返していた。そして幼き私達を含めたすべての人々は、そのまま徒歩で広大な滑走路へと進んで行った。  滑走路には大小の(おびただ)しい数のロケットや宇宙船が並んでいて、次から次へとそれらに人々が乗り込んで行く。そして次々と離陸していくのだ。幼き私にはもう理解が追い付いていなかった。  そんな幼き私達と一緒にバスに乗って来たいくつかの家族の四十人ほどはスタッフの指示に従って小さな宇宙船に乗り込んだ。シートベルトの説明と航行中の注意を口早(くちばや)に説明されると、宇宙船はすぐに轟音をたて始めた。それは説明にあった発射の準備段階の作動音で、間も無く宇宙船が発射する事を意味していた。  宇宙船はゆっくりと動き出すと、すぐに幼き私が初めて体験する強烈な振動とGを伴いながらあっという間に宇宙空間に到達してしまった。  宇宙船のモニターのランプが消えて、シートベルトのロックが解除された。幼き私は早速、初めての宇宙空間を見に窓の方に駆け寄った。  真っ暗な空間に大小無数の星々が様々な輝きを放っていた。いつも見ていた赤褐色の大地とは似ても似つかない壮大な光景が、まるで自分を呑み込んでしまうのではないかと思う程に感じられた。この宇宙には自分の知り得ないものが無数に有るのだとゆう事をこの時、思い知って感動した事を鮮明に覚えている。  そして、ふと斜め後ろを見た時であった。大きな赤褐色の惑星(ほし)が不気味に浮かんでいたのだ。幼き私はその惑星がついさっきまで自分達が暮らしていた惑星だという事実を飲み込めなかった。その惑星はそれ程までに悲しげに、苦しげに幼き私の目に映って、幼き私の心を一瞬にして(えぐ)ったのだ。今までの興奮が嘘の様に幼き私は(おび)えて、(たま)らず母にしがみついて助けを求めた。 「お母さん、僕、もうあそこには戻りたくないよ…。何だか怖いよ…」  すると母は涙を流しながら幼き私に言った。 「もう戻れないわ…。もう、人が住める様な環境じゃ、ないんだって…」  父も口を開いた。 「年々、(ひど)くなっていたからな…。今年はとうとう水も出なくなったし、作物も育たなかった…」  幼き私は改めて周りを見渡した。すると子供達は皆んな(おび)えていた。幼き私と同じようにあの惑星を見たのであろう。そして大人達はそんな子供達を抱きしめて(すす)り泣いていたり、悲愴(ひそう)が溢れ出した顔をしていた…。  私は中には今でもあの宇宙船の中の光景がびっちりとこびり付いている。それは故郷の星の不気味な様子よりも、私にとっては強烈に心を抉っていたのだ。私はあの日の宇宙船内の光景を『絶対に忘れる事は無いだろう…。忘れてなるものか』と、そう思いながら今日まで生きてきた。  現在、七十歳を超えた私にはもうそれほど多くの時間は残されていないだろう。子宝にも恵まれて、多くの孫も(おが)むことが出来た。もう何も思い残す事がないのだ。そう。幼き頃の少しの思い出だけを残して、移住を余儀なくされたあの故郷の惑星(ほし)以外には…。  私は例え失敗しても、事故が起こって、帰って来れなくても悔いも無い。ただ、このまま何もせずに死んでゆくなんて出来ないのだ。 “ゴゴゴゴゴゴッ…!”  轟音を響かせながらロケットは勢い良く宇宙(そら)に向かって打ち上がった。成功である。老人が自ら開発、制作したロケットは周囲の心配をよそにあっという間に宇宙コロニーの大気圏を突破し、宇宙空間に到達した。これから微かな思い出しかない生まれ故郷の惑星(ほし)までは半年以上の長き道のりになる。今現在のあの惑星の状況は全く分からない。もはや人が降り立つ事も、ままならないかもしれないし、大気すら消滅しているかもしれない。  だが、老人それでもこの計画を実行したのだ。自らが開発した復元装置と様々な植物の種子で再びあの惑星に人が住める事を夢見て。その願いは自分には叶わないかもしれない。だが、孫が、さらにその子供達が再びあの惑星に住める事を夢見て…。終
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