プロローグ

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「へぇ、杏ちゃんが医者にねぇ、天才じゃないか。本当におめでとう」 祖母がいつにも増して目尻の皺を深くして微笑む。 それに続くようにして受験合格が決まり春から晴れて医学生となる杏も目を細くして笑った。 今日は、久しぶりに母方の祖母の自宅に“手伝い”のために来ていた。 春からは大学生になって勉強漬けになるのも分かっていたから顔を見せたいという思いもあった。 母の真由美は忙しそうにバタバタと走り回っている。 “手伝い”というのは、祖母が春から施設に入るタイミングで古くなった自宅を建て替えるための準備だ。 祖父は去年に亡くなっている。 「ちょっと、杏!見てないで手伝って!」 「今手伝いますよー。お父さんたちが来てからでいいじゃん」 「ちょっと遅くなるっていうから。こういうのは先にやるものよ」 のんびりと祖母の隣でくつろぐ私を一瞥して慌ただしく台所奥に消える真由美の背中を見ながら重い腰を上げた。 「医学部か…素晴らしいね。杏ちゃんは天才だ」 今日一日で何度も天才というワードを使用する祖母に誇らしげに「そうでしょ?」と言った。 「そういえばね、おばあちゃんのお母さん、杏ちゃんからするとひいおばあちゃんになるね。ひいおばあちゃんもね、お医者だったんだよ。結婚してすぐにやめちゃったらしんだけど、それはそれは天才と言われていてね…田舎では神童扱いされてたんだから」 「そうなの?」 曾祖母の話は昔何となく聞いたことはあった。しかし、医者だったことは初耳だ。比較的若くに病気で亡くなっていることも知っている。 「でもね、昔は中間層ですら学校に通うのは非常にお金がかかったんだ。だからひいおばあちゃんはね、書生って言って優秀な人がお金のある家で雑用をやりながら勉強させてもらうんだ。当時は女性で大学卒業なんてほぼなかったから」 「へぇ…すごいね、それほど優秀だったってことだよね?スポンサーみたいなものかな」 そういうことだね、と祖母は微笑む。 今日は天気が良く日差しが強い。もう時期訪れるであろう春を感じた。 「すごいね!ひいおばあちゃん見たことないけど凄い人だったんだ」 「そうだよ。書生って言っても当時は男の子が多かったからね。ひいおばあちゃんは相当優秀だったんだよ」 「へぇ、なんかひいおばあちゃんと同じ道に進むことが誇らしく思う」 「おばあちゃんも誇らしいよ。杏ちゃんがまさか医学部に入るなんて」 畳の優しい匂いが鼻を掠めると真由美の「倉庫の片づけ任せたわよ」と台所から声が聞こえて苦笑しながら立ち上がった。 「じゃあ、私、隣の倉庫行ってる~」 杏は立ち上がって祖母から離れると玄関に向かった。 木製の古びた引き戸に手を掛けて外に出た。 一瞬強い風が吹いて目を細めた。祖父母宅から見える距離に桜の木が見える。 もう少しで花を咲かせるであろうそれを見ながら倉庫に向かう。 倉庫は小さな頃に遊んで入ったことがあるくらいだったが、その頃も物置と化していた。 幼少期はかくれんぼや探検気分でワクワクしながら入っては怒られていたが今は今日のように片づけなどで入らなければならない状況でなければ自ら入りたいとは思わない。 重たい扉を開けると、むっと埃やカビの匂いが鼻をつく。顔を顰めたまま軍手をして蜘蛛の巣に引っかからないように慎重に進む。 窓から差し込む光が歩く度に舞う埃を照らす。アレルギーなどないはずだったが、あまりの埃の量に早速目が痒くなった。主に本が積まれている。 売れそうなものがあれば売ろうと思っていたが、見渡す限りどれもそれに値するものはないようだ。 「ひいおばあちゃんって医者だったんだよね」 独り言をつぶやきながら、山積みにされた本をとりあえず外に出そうと思いしゃがみこんだ。 春から医者になる杏は自分が生まれる遥前に医師として数々の人を助けてきたのだろう。どんな人生を送っていたのだろうと気になりながらも手を動かす。 「よいしょ、」 昔の新聞まで出てきた。しゃがんではそれらをまとめて外に出す、それらを繰り返していると、ある本に挟まっていた何かが落ちた。 ひらひらとまるで桜の花びらが散るようにそれは床に落ちる。慌ててそれを手に取る。 それは“封筒”だった。 首を傾げながら長方形の封筒を見つめる。 古びていて明らかに最近のものではなかった。持った瞬間も今にも崩れそうなほどにカサカサとしていて汚れている。もしかしたら元から褐色の封筒かもしれないが。 もしかしたら祖母か祖父のものかもしれないと思ったが、妙だと思った。 何故なら封筒はしっかりと封がされていたからだ。古くなっていてくっついてしまっている可能性もあるが、封字がされているしおそらく開封していないのでは、と思った。 でも、どうして…―。 表面には達筆で読みにくいが(汚れも相俟って) 「絢…子?」 そう書かれてあるように思った。祖母の名前は梅子のはずだ。では、誰なのだろう。  封書の差出人のところには“京一郎”と書かれてある。 祖父母どちらも名前は一致しない。混乱しながらも何の本に挟まっていたのかを確認した。  この本も非常に古びていたが教科書のようなものだと推測した。 杏は片付けなど放り出して走って玄関に向かう。 乱暴にドアを開けると靴を並べることもせずに、祖母がいる居間に走る。 「おばあちゃん!」 「どうしたんだい、そんなに急いで」  はぁはぁと呼吸を乱しながらこれ、と言って祖母にそれを手渡した。 祖母は最初キョトンとしていたが、それを見るなり唸りだした。 「これ、本とかいろいろ整理していたら見つけたの。おばあちゃんって梅子だよね?誰の手紙かな。随分古いように思うんだけど」 「…これは、ひいおばあちゃんのだね。絢子っていうから」 「そうなんだ…」  祖父母の物ではなかったことが判明し、同時に先ほどまで話題になっていた曾祖母の手紙であることに感動していると、祖母が「でも、誰かしらね」と言った。 「京一郎?知らないね…」 「…知らない?」 「ひいおじいちゃんじゃないの?」 「いや、違う…」  妙な空気が流れた。まさか不倫相手とかそういったことではないか、と思ったがそれを孫の杏が口にすることは憚られる。親戚とか、友人だろうか。 「あの…ひいおばあちゃんとひいおじいちゃんって…仲が良かったの?」 「仲は良かったよ。お見合いみたいな形で出会ったらしいけど、見合いで知り合ったとは思えないくらい仲は良かったよ」  心の中を読まれているようだった。一瞬でも曾祖母のことを疑うようなことを考えていた自分を恥じた。 「でも、昔は今のように自由恋愛というわけにはいかなかったからね」 「…そっか。それどうしよう?勝手に封を開けるわけにもいかないし…」 「そうだねぇ、」 どうして曾祖母は封を開けずにしまっておいたのだろう。 大切なものではないのならば、捨ててもよかったはずだ。逆に大切ならば…―、どうして読まなかったのだろう。 祖母の手にある汚れた封筒から目を逸らすことが出来ずにいた。
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