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横に座っていた男は強盗のうち一人に連れられ便所に向かった。切り詰めた表情で腹部の圧迫を訴えていたが、あれはおそらく演技だろうと女は思う。トイレで何をするのかは不明だが、彼がどうにか逃げようとしていることは察した。実質的に一人の強盗を拘束してくれた彼に心の中でエールを送る。とはいえ自分の目的は脱出ではなく金の保護。協力する義理はない。あくまで自分のやり方を貫くつもりだ。
強盗はカウンターの奥に目をやり、せわしなく爪先を弾ませている。こっちを警戒していない。
椅子からゆっくり腰を上げる。立ってしまえばこっちのものだ。強盗との距離は遠くないので数歩で歩み寄り、一撃食らわせてやる。そう思い描いていた時だった。
ぶしゅう、と椅子のスポンジが収縮する。
「あっ」
静まりきった店内で、その音は情けなくもはっきり響いた。
「おいお前、何勝手に立ち上がってんだよ」
強盗が振り返る。銃口は女の心臓を捉えていた。
「お」
左隣の壁、その下の隙間に何か赤いものが除いている。太い円筒の一部か。男は音を立てないようにそれを引っ張り手中に収めた。
「殺虫スプレーか」
左隣は便座のある個室ではなく清掃用具入れだったようだ。確かに銀行にしてはここのトイレは綺麗ではない。カマドウマが愛を育みそうである。
「……これ使えるな」
赤い塗装に協調された「殺」の文字。強力な殺虫成分を含んでいそうだ。
「何か言ったか」
対面の扉を隔てて不機嫌そうな声が聞こえる。
「あ、いえ。も、もう出ます」
怯えた声を作ってまっさらな便器に水を流した。円筒上部のくぼみに指を置く。なぜこんなな大胆な行動に出ようとしているのか、男自身も分かっていなかった。ただ発端にあるのはもう少しだけ早く来ていればよかったという後悔で、ひたすらにそれが遡っている。もう少しだけ早く起きていれば、もう少しだけ早く寝ていれば。もう少し、もう少し。積もって山になった小さい後悔の塵を、この場で一気に掃除してしまいたかったのかもしれない。
勢いよく戸を引き、人差し指を押し込む。プシュー、という強い噴霧音と共に白い粒子が覆面の顔に吹き付けられた。
「いってえええ!」
目出し帽は守って欲しいところが丁度空いている。触れる空気全てが極小の針になり眼球に突き刺さったようだった。慌てて両手で顔を覆うが痛みと涙は止まらない。呻く強盗のポケットから自身のスマホを取り出した男は、まだまだとばかりに手を引き剥がして執拗に霧を噴射した。
「痛てててて!やめろ馬鹿!」
男を振りほどいた強盗は当初の目的を忘れ、帽子を脱ぎ捨てると洗面台に向かった。
「へっ、鈍いんだよ小太り!」
男は程度の低い捨て台詞を吐いて窓に手を掛ける。外の駐車場に出ると一目散に逃げ出した。
警察へ行こうか、とも思ったがやめた。平日の昼間、人通りは多くないが多分気づいて通報した人はいるだろうし、何より腹がラーメンを求めていた。餃子とビールも付けてしまおうかと迷う男の足取りはとても軽い。
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