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2006年11月28日 火曜日
ドアを開けると珍しく恵子のパンプスがあった。
しかし料理の匂いも米が炊きあがるよい匂いもしない。ナオが覗くと、恵子は狭い台所に無理やり詰め込まれた食卓の椅子に腰掛けぼんやりしている。食卓の上には紙パックのワインとぶどう色に染まったガラスの空きコップが置かれているのが垣間見えた。
「ナオさん? ただいまくらいおっしゃいよ」
恵子は背中が発声器官だ。幾つになってもあまったるい話し方が気持ち悪い。
「ただいま。ご飯は食べたの?」
「まだ。あなたを待っていたの」
嘘だ。正確にはあなたが帰ってきて作るのを待っていたの、だろう、と心のなかで母を毒づきながら「空きっ腹に安酒を入れると悪酔いするよ」と優しく労り、着替えもしないで台所に立つ。
冷蔵庫はがらんとしていて、野菜数種類と卵、牛乳しかない。
「トマト入りのオムレツでいい? あとサラダと味噌汁。それくらいでいいかな」
「ありがと。トマト入りの……チーズある?」
ありがたいなんて思ってないくせに。せめて頼むときはこっち向けよ。
「ピザ用しかない。お母さんの好きなモッツァレラはないね」
ナオは背中で答える。何贅沢言ってんのよ。ピザ用チーズがあるだけでも感謝しなさいよ。また心の中で小さく毒づく。心に澱が溜まっていく。ジョジーに後で思いっきり愚痴を聞いてもらうのだから我慢我慢、ナオは不満をぐっと呑み込んだ。
この家に越して十四年。父を亡くし、母がパート勤めにでてから十年。毎日同じような会話を繰り返してきた。しかしこの日は少しだけ違った。
「あなたに葉書がきてるわよ」
ナオは渡された厚手の葉書をしげしげと眺めた。洒落たフォントでMerry Christmasの金文字、その下に小さな字と地図、柊のイラストが印刷されていた。
ここに引っ越す前に通っていた小学校のクリスマスパーティー兼同窓会の招待状だった。
「お紅茶淹れてちょうだいな。疲れてるんだからあ」
階段を上るナオの後ろから恵子の声が追いかけてくる。どんなに落ちぶれても言葉を改めない恵子はナオにしてみれば滑稽この上ない。いつまで松濤のマダムのつもりなのだろう。
「そのくらい自分でやって。ついでにわたしに持ってきて」
ナオは階段の一番上から大声で叫ぶと、乱暴に自室のドアを閉めた。
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