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「そうだったんですね。私、読んだことがなくて。大きな虫ということだけ知っていたので勝手にゴキブリだと思い込んでいました」
「俺なんか未知の虫を想像しているから、今回も憂鬱だよ。あんな化け物と心構えなしに遭遇したら卒倒もんだ」
化け物……ね。
私のことを言われたわけではないのに、とても悲しくなってきた。
視線が下がっていく。
靴の先がかすんで見えてきた。
「岸本さんはどのように見えているのですか?」
話の流れからして私にも話題がふられることは想像できていた。
でもいざふられると何と答えたらいいのかわからない。
そのままを答えたら、中学のときと同じ反応をされてしまうかもしれない。
嘲笑と怒り、そして思い出すのが母の存在だ。
ーー二十三年前の夏休み明け。
私は散らかった部屋をうんざりした気持ちで眺めていた。
そうした張本人である母は、いびきをかいて布団も敷かずに寝ている。
壁に空いた穴を見つけて、ため息をこぼす。
また暴れたのか。
父が浮気相手の女性と姿をくらましてから、母は自暴自棄になってしまった。
明るかった性格から一変、何に対しても卑屈にとらえるようになった。
〝どうせ料理を作っても食べてくれる相手はここにはいない〟
〝どうせ掃除をしても帰ってきてくれる相手はもういない〟
心の澱みがそのまま部屋を汚くし、私がいくら掃除をしてもあとからあとから、ごみをその辺に投げ捨てるようになった。
食事も私が作らないと食べもしない。
母は出された料理は見るが、作った私を見ることはなかった。
そんなときに出会ったのがカフカの『変身』だ。
不条理な世界観に私は一方的なシンパシーを抱いた。
毒虫となり家族に邪魔者扱いされるようになった彼と、父のことがきっかけで母の視界にも入らなくなった私。
世の中は不条理に満ちている。
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