遷移レポート:incident039_1357

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■危険評価:ε/要観察 ■遷移時点:2013年1月29日 ■遷移状況:閾文字列を媒介に現実剥離が生じ、観測者は亜扉(ドア)からサイドノードへ遷移した。 ■観測結果:ホテルを思わせる廊下が長く続いており、動くものは見えない。空調に似たノイズが断続的に聞こえる。光源は壁の間接照明で、それは赤みがかっている。 ■閾文字列:  わたしはドアを探している   記憶を毎日上書きしても    忘れた鍵がいつも机のうえにある  インターネットに保存された   もういないひとのブログを読んだとき    世界の裏口を通り抜けた気がする ■特記事項:典型的なフロア型サイドノードだが、観測者は固有形態を保持したまま残留しており、表層現実への干渉が確認されている。観測者の有する異時間軸の遷移記憶が表層現実との径路形成に寄与した可能性あり。 ■補遺①:  人の気配がないのが異様だった。壁面を走る電線と水道管から、城砦の通路だとは分かるのだが。  その空間にいる自分を発見したとき私が最初に思い出したのは、生き延びるには逃げ続けるしかないという言葉だった。この魔窟に囚われ、まともに服も着せられず値踏みされてからずっと、(ルイ)に、そして自身に言い聞かせてきた言葉だ。私はあの子が売られた店からその手をとって逃げた。逃げたきゃ何度だって逃げればいい、そう私が言うと、いずれ逃げようとも思えなくなると睿は笑った。逃げて身体に黒幇(ヘイバン)の罰を刻まれるなら、ここを受け入れたほうがずっといいと。そうなったら? 簡単だよ。できることはひとつしかなくなる。戦うだけ。でも私たちは弱いから、戦えば死ぬ。だから逃げ続けるしかない――。  次に私は考える。ここは何階だろう。不用意に老闆(ラオバン)たちの敷地に近づかないよう注意しなければ。上階から染み出した雨水が滴り、水溜りがおぼろな照明を反射している。外光が射さないため時間も分からない。  ふと、視線に気づいた。それはむかしから私を見つめていたものだ。人間の苦しみや欲望を観察する目。私の無様なあがきを、睿に執着する高官の醜い皺を、憐憫も嫌悪もなく眺める視線。ああ、お前だったのかと思った。家を奪われた日、役人の凶々しい文字が布告された日、睿が消えた日。世界の裂け目からあれが私を眺めていた。そして私は、自分が裂け目の向こう側にいることを知った。  薄暗い通路は無限に続き、水平感覚の狂った階層は際限なく重なる。地上からの距離は測れない。たぶん地上などないのだろう。はじめは無数の回廊と部屋を地図に記していたが、すぐやめてしまった。食事と排泄、睡眠は夢のなかのように身体を通り抜け、これもやがて忘れてしまった。それでも、私を見つめる視線だけは感じていた。  だれもいないので会話の機会は少なかったが、時折喋っている自分に気づいた。たとえばあるとき、水の枯れたプールのようなコンクリート囲いのなかに数十もの人体が詰め込まれ、潰れながら蠢いているのを見た。それは言葉のようなものを撒き散らしていて、私はそうしたものたちと会話をしていた。  年月は溶け、私の身体もしだいに存在しなくなった。しかし私は在り続けた。この無人の重層空間からあなたの姿を見、声を聞くものとして。私はいまここで、むかしいた世界を懐かしんでいる。睿と、私のいた世界を。 ■補遺②:  大学の後輩にKという不思議ちゃんがいて、自作の小説を読ませてもらったことがある。深夜残業の帰り、そのことを突然思い出した。  Kは所属するコミュニティをもたない放浪者で、気まぐれに入ったサークルのひとつが僕のいたピアノ愛好会だった。自己紹介のときの地雷系ファッションと上目遣いの瞳は印象的で、危険を察した僕は距離をとっていたが、友人のSなどは彼女を追いかけて心を病んだりしていた。その日徹夜でレポートを仕上げた僕は、明け方にふらっとサークル棟に立ち寄った。廊下の灯りが早朝の光のなかで浮いて見えた。部室に近づくと、なかからたどたどしいサティが聴こえて、防音扉を開ければそこに丸いヒールのパンプスがあった。 「あ、○○さんだ」  滅多に部室に来ないKがひとりいた。向こうも驚いた風だった。Kはしばらくグノシエンヌを練習して、僕はなんとなくそれを聴いていた。ここにはもう来ないかなと思って。ピアノを止めてKが言った。サークルに馴染んでいるとは言い難く、ほんとうに来ないんだろうなと思った。あのときKが、ほとんど話をしてこなかった僕にケータイ画面を見せてきたのがなぜか、いまでも分からない。最近書いたんです。感想もらえませんか。当時それはケータイ小説と呼ばれていた。短い話で、九龍城がモデルらしい閉じた世界をさ迷う暗い内容だった。そのとき僕は、ひとが物語を書くってことをはじめて知った。これって実体験なの? そんなことはあり得ないのに、僕はなんのつもりでそんなことを聞いたんだろう。気づくと知らないところにいるって、だれの人生にとっても実体験じゃないですか? 赤アイシャドウで強調されたKの大きな瞳はなんだか焦点がぶれて見えた。たとえば、自殺したひとの書いたブログがネットをずっと漂っているのって、あたしたちの人生みたいじゃないですか。僕はびっくりした。  随分むかしの記憶だ。あの小説を思い出しながら、いましがた検索してみたけど、さすがに見つからない。ただKの言葉に似た詩のようなものを、とあるブログに見つけた。世界の裏口を通り抜けた気がする――そう締めくくられる言葉を最後に、ブログの更新は止まっていた。Kはいまどこにいるんだろうなと、そのブログを見ながら僕は思った。
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