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「お前はなんなんだ。小原になる前は誰だったんだ。一体どのくらい生きているんだ」
縹の狼狽ぶりを見て、『それ』はくすりと笑った。
「さあね。君たち人間のあいだには、自分のドッペルゲンガーを見た人間は死ぬ、なんて都市伝説があるらしいけど、それたぶん、僕らのことだよね」
『それ』が、柏木の鞄と白衣を持って、助手席側の扉を開ける。
縹にひきとめる術はない。アリバイによって殺人の容疑は晴れ、そして、警察内部の人間にこんな話を信じてもらえる可能性はほぼゼロだ。
「待て!」
しかし、縹は思わず叫んでいた。この殺人生物をみすみす世に放ってはならない。
「僕を逮捕したかったら、してもいいよ。拘置所から脱走を試みるのも面白そうだし。追いかけっこして遊ぶ? それもいいね」
ふざけた口調で『それ』は笑った。
そして、バックミラーに写る自分自身を見たとたんに、急に虚しい顔つきになった。
「――僕、ひとりぼっちなんだよ」
胸中を吐き出すように『それ』はつぶやいた。
縹は感傷的な言葉をはねつけるように怒鳴った。
「いや、お前は孤独じゃない。さっき『僕らの一族』って言ったよな。他にもいるんだな。お前たちは、俺たちの社会にどのくらい入り込んでいるんだ。今何人くらい、入れ替わっているんだ」
縹が震える声で問い詰めると、『それ』は再び、不敵な表情をたたえて微笑んだ。
「知らないほうがいいよ。それを知ったら縹くん、もう誰も信じられなくなるからね」
小さな笑い声を残して、柏木にそっくりの生き物は、車からするりと降りて宵闇に消えていった。
縹は呆然とその背中を見送った。
ただ、海洋生物のような、生臭い湿った臭いだけが車内に漂っていた。
了
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