尾道スロウレイン

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 随分とのろまなエレヴェーターで、ワンフロア上がるだけなのに一分強もかかった。  香港やバンコクで似たような経験をしたデジャヴ。きっと、奈々には未経験のことで、不安に思ったことだろう。そんな奈々には申し訳ないが、動きが止まってこのまま閉じ込められても「運が悪い」などとは思わないだろう。  ゆっくりとドアが開くと、目の前に尾道の海のような青地の看板に波のようにたゆたうような白い文字で「PlageBleue」と書かれているのが視界に入った。  野球小僧にしては粋な仕事をしやがる。  緊張しながら、重厚な扉を開けると、肉の焼ける匂いと香ばしいフォンドヴォーの匂いに包まれる。  じいちゃんの洋食屋と一緒だ。  その主は俺とその思い出を分かち合うただ一人の弟だ。  俺と奈々に気付いたマネージャーと思しき小林克也さんによく似た中年男が速足で近づき、妙にかしこまって「オーナーのお兄様ですか?」と訊く。確かめもせずに「すいません。今夜は生憎ご予約で一杯なんです」と言わないのは俺と義晴の顔がそっくりだからだろう。  取材中、俺が客や店主にやたらとジロジロと好奇の目で見られるのを奈々は不思議がっていたが、要はそういうことなのだ。 「ああ。義晴はいるかな?」 「お待ちかねですよ。こちらへ」  大きな鉄板のカウンター席の前を通り過ぎ、椅子席を通り過ぎようとしたところで、「お!なんや?ヨシが二人おるど!」という甲高い声が聞こえた。  ヒレステーキを赤ワインでやっつけている声の主は白髪のスポーツ刈りの眼鏡の初老の男でどこかで見た顔で、それは俺に向かって言っているようだ。 「どしたんや?おい。兄ちゃん。影武者かいや?この辺は物騒じゃけん、ヨシも用心しとるんかいのう。おう?」  早口の広島弁は考える隙を与えないが、子供の頃のヒーローとの邂逅とあれば、無理してでも喋る。喋り倒す。 「達川さん。ワシ、義晴の兄貴ですよ。影武者って人を藤原喜明みたいに言わんでくださいよ」 「ほうか。ほうか。こりゃ失礼。よう似とってじゃね。話は聞いとるよ。じいちゃんの洋食屋が復活できてえかったやねぇ。ヨシのタンシチューとコンソメスープは最高じゃけん、お兄ちゃんも食べていきんさいや」  達川光男。  赤ヘル黄金時代の扇の要。  ひと昔前は、「プロ野球珍プレー好プレー」の常連だった。  そういえば、義晴がルーキーの頃、監督だった。いまだにああやって気にかけてくれているのか。存外いい人なのだろう。  奈々は「テレビのままじゃわ」と圧倒されている。 「別嬪さんまで連れて、流石、ヨシの兄貴じゃのう。ええことじゃ。ハハハ」  達川さんの高笑いを聞いたからなのか、それとも待ちくたびれたからなのか、義晴は奥の事務室みたいなところから、少し戸惑ったようにして出てきた。キョウジュと同じく、二十三年ぶりにその姿を見る。 「兄さん」  声は震え、目は涙で溢れている。 「兄さん」に滲んだ饒舌でありながら、寡黙な熱い感情は感電死するほど、強く、強く、痺れるほどに伝わってくる。  それにしても、精悍な顔つきになったものだ。軀も倍くらいに大きくなっているように見える。現役時代は鬼軍曹大下コーチにさんざんしごかれたのだろう。オーナーでありながら、スーツでもなければ、IT社長のようなポロシャツでもなく、ギャルソンと同じ格好をしているところが何とも謙虚で、我が弟ながら誇らしく思える。 「義晴。元気じゃったか?」 「兄さん。やっぱり、生きとったんじゃね。ワシは信じとったで」 「死亡届、とめてくれとったそうじゃのう」 「当たり前じゃ。この店作って、兄さんの帰りを待っとたんじゃけ。さぁ、あっちで食事しながら話そう。あ。そちらの女性も一緒に…って、え?加奈子さん?え?これどうなっとるん?ワシ、疲れとるんかのう?」  俺が生きていることは前提だったようだが、まさか加奈子にそっくりの娘が一緒だとは計算外もいいところだったようで、滅多に取り乱すことのない義晴が「吉川さん、吉川さん。どうもいけん。悪いんじゃけど、水と降圧剤持ってきて」と小林克也さんに指示しているのを横目に俺と奈々は顔を見合わせて笑った。 
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