尾道スロウレイン

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 本通りの花のよしはらで墓前に供える花束を見繕ってもらい、加奈子の好きだったグリコアーモンドチョコレートを買おうと思ったが、どこにも売っていなかったので、仕方なく、明治のそれを買い、商店街から北の方向に進み、踏切を超え、千光寺に向かう山の中腹に行くと、俺が二十歳過ぎまで過ごした筒井先生の寺がある。  義晴のカープ入団の時の契約金で本堂と母屋はリフォームされ、見違えるほど綺麗になっているが、鐘楼と俺と義晴が住まわせてもらっていた離れは昔のままだ。がめつい筒井先生のことだから、離れは上杉義晴記念館にでもリニューアルしているものとばかり思っていたが、意外だ。  先ずは、筒井先生に顔を見せ、菓子折りでも持って長年の不義理を詫びるのが筋だが、この時間だと間違いなく昼寝中だ。寝起きが悪く、本堂でバンドの練習をしていると「喧しい!」と拳骨をお見舞いされたことも二度や三度ではないので、それは次の機会に譲るとして、加奈子の墓前へと急ぐ。  筆頭檀家である藤井家の墓は立派で、年中供花が絶えないので、遠くから見てもわかる。また、そこから臨む尾道の海の美しさは、千光寺の展望台まで登らなくてもいいほどだ。  遠目に墓前に語りかけるショッキングピンクのベレー帽が眩しい、小柄な若作りの初老の女が見える。ティアーズドロップ型のサングラスとサイケ柄のシャツとジーンズはジャニスジョップリンにしか見えない。婆やのおさきさんかと思ったが、生きていれば九十歳を超えているはずだから絶対に違うだろう。  キョウジュのおふくろさんだ。  俺の気配に気付いて振り向くと、嬌声をあげ、「まぁ!ジュリー!あんた生きていたの?」と目を白黒させ、腰を抜かさんばかりに驚いた。誰も彼も尾道の人間は、俺のことは死んだものとばかり思っているようだ。  ちなみに俺はキョウジュのおふくろさんからは「タミオくん」でも「上杉君」でもなく、「ジュリー」と呼ばれていた。俺自身、沢田研二に似てると思ったことは一度もないのだが、タイにいたころよく日本人を含めた外国人観光客に英語で道を聞かれたので、くどい顔であるという共通点はあるようだ。 「何?もう!びっくりした。あんた、変わらないわねぇ。本物はあんなに太っちょになったっていうのに」 「お母さんも相変わらずお若くて」 「何よ!こんなおばあちゃん褒めても何も出ないわよ」 「最近絵のほうは?」 「これでもコロナ前は福岡や台北や上海のギャラリーからも声がかかってたんだけどね、このご時世だからさっぱりダメ。描いてはいるんだけどね。家にばかりいるとどうしても寡作になっちゃうわよ。で、ジュリーは今日はどうしたの?」 もともと、この人は横浜の上大岡か蒔田あたりの銀行の頭取の一人娘なので、浮世離れしているというか、抜けているところがある。墓場に来る理由を訊くなんて… 「加奈ちゃんの」  と言うと、真面目な顔をして、口を結んで天を仰ぎ、独り言のように「ジュリー。あたしはね、加奈子さんはあんたと一緒になるべきだったと思うの」とゆっくりと重厚な口調で続けた。 「そりゃ加奈子さんは、たった一年だけど、あたしのこと本当の母親みたいに慕ってくれたし、器量も抜群だし、奈々のような可愛い孫まで遺してくれた。総司の、藤井家の嫁としては百点満点。いや。勿体なくて申し訳ないくらい。でもね」  涙声になる。総司は俺も忘れそうになるくらいのキョウジュの下の名前だが、由来は言うまでもない。幕末の美少年天才剣士を我が息子に重ねたのだろう。安易な少女趣味だが、このおふくろさんらしい。 「ジュリーはなんであの時、加奈子さんと逃げなかったの?加奈子さんがあんたを追って尾道駅まで行ったっていうのに、あんたは優しいから総司のことをほおっておけなかったのかもしれないけど、あんた自身はどうなのよ?加奈子さんは?」 「もう昔のことです。それに、この二十三年、後悔なんて死ぬほどしてきましたよ。さすがに加奈ちゃんには生きとって欲しかったですけど。ワシが尾道に帰ってきたんも」 「わかるわ。ジュリー。つらいこと思い出させてごめんなさいね」  俺は、微笑んで首を横に振り、献花し、加奈子に手を合わせた。 「もしもあの時加奈子が俺と」なんて考えない。人の持って生まれた運の総量など決まっている。この世に生まれて、俺やキョウジュと出会い、愛され、奈々ちゃんを生むところまでが加奈子の役割であり、運命であったのだろう。俺のように風の吹くまま今を生きていると、運命を受け入れるのに従順になってくる。それは加奈子を失い、もう会うことが叶わないという絶望と同時に達観は存在し、進行し、矛盾しない。  流浪の産物。  あれから俺は、違う肌の色で、違う神を崇拝し、違う常識の中で育った女に随分と惚れ、情も交わしてきたが、やはり、あの季節は、加奈子は、特別なものであったのだと思う。見えた景色の鮮烈さや風の匂い、唇や乳房の柔らかさや甘さが熱帯の太陽に向かって咲く色鮮やかで芳しい花と日陰に咲く徒花くらい違う。  俺は、加奈子に遅すぎた帰郷を心で詫びた。 「おう。どしたんなら?騒がしいのう。中洲のソープで君島みおの腹の上に乗っかったとこじゃったんに、昼寝の邪魔をしてからに。ええ」  眠そうと言うよりも少しばつの悪そうな顔をした作務衣着姿の筒井先生が後ろに立っている。 「こりゃ、藤井の大奥様と…わりゃタミオか!」 「はい。筒井先生」 「筒井先生じゃなぁわ、ボケ!こんな(お前)の死亡届出すん、よっちゃんに泣いて止められとるんで。この盆暗が!」  筒井先生の右ストレートが右の頬に入った。  懐かしい痛みだ。  本来、俺はこれを加奈子やキョウジュや義晴に「いい」というまで喰らわされ続けても文句言えない立場だ。  しかし、それは淫夢を遮られたことの憎しみの拳ではないし、俺の不義理に対する債務の鉄拳でもない。筒井先生は、怒りながら泣いている。笑いながら怒っている。往年の竹中直人の一芸のように。だからなのか、少し芝居がかっているようにも感じる。キョウジュのお袋さんの手前、保護者らしいところを見せなければまずいのだろう。 「先生!わけも訊かずにもう!」 「失恋したくらいでなんなら!わしゃなさけなぁで!」 「先生!ジュリーだってすまないと思ってるから、こうやって加奈子さんの墓前にきてくれてるんでしょうが。これ以上の乱暴は私が許しませんよ」  キョウジュのおふくろさんの食ってかからんばかりの迫力に筒井先生は後ずさり、涙を作務衣着の袖で拭いながら、「タミオ。オドレは優しいけぇ、そうやって昔から女にモテる。おどくしゃぁ(ムカつく)奴じゃ」と少し不貞腐れて背を向けると、「ワシは今の一発で気がすんだけぇ、よっちゃんに謝って来い。流川で洋食屋をやっとる。ワシが念達しといてやるけぇ」 「義晴は広島におるんですか?」 「弟の居場所も知らんのんか?カープやめてからじゃけぇ、もう十年以上じゃ。お前らよう『大人になったら、店作って、じいちゃんのカレーライスとタンシチュー復活させよう』ゆうとったが、よっちゃんは一人で約束を果たしたんで。大した奴じゃ」 「じいちゃんのレシピ…そうか。義晴、お前…」  俺自身、上海やバンコクでは飲食店を経営して糊口をしのいでいたが、いきなり身内が三人もいなくなり、義晴と淋しさを紛らわせるように、亦、互い励ましあうように語った『夢』のことなど忘れ、惰眠を貪るように、何年も何年も手間も暇も材料費もかからないお好み焼きを焼いていたのだと思うと、人生そのものを怠ていたのではないか、と恥ずかしくなるのと同時に、義理堅い義晴のことをどこまでも逞しく思うのだ。 「ええか?流川の『プレッジブルー』じゃけな。まぁ、元カープの上杉義晴の店ゆうたら、広島ではカープ鳥ぐらい誰でも知っとるがのう」  何だって?祖父の洋食屋と同じ名前か。  青い波打ち際の意味のフランス語。  海軍大尉だった祖父はパリ帰りのインテリでもあった。と言っても、フランス語やフランス文学よりもシチューを作る方が上手くなったらしいが。 「相変わらず、ジュリーは人気者ね。弟さんに会う前にうちの総司にも会ってあげてね。あの子、あんたがいなくなってから同世代の話し相手がいなくて…」  死んだことになっていた俺なのに、会うべき人が多い。  加奈子もその中の一人だったのに、と思うと、なかなか切ないものがあるが、キョウジュも義晴も健在。今すぐここに呼んで宴など張りたいものだが、加奈子が厭がるだろうな。  俺がここに来たことは? 「タミオのバカ。今までなんしょうたん?ウチ、ずっと待ちようたんじゃけな」  恨めしそうに俺に八つ当たりした後、泣き崩れるのか?  俺は頬に一筋の涙を伝わせ、海を見ながら「加奈ちゃん。ごめんのう」と声にならない声で言った。
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