尾道スロウレイン

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 キョウジュの部屋は大きくは変わっていなかった。  ヤマハのピアノにローランドのキーボードにグレッチのギターが一本。作曲ソフトを入れたデスクトップのパソコン、壁を埋め尽くす楽譜と本とCD。天体望遠鏡はベランダに出ている。紫檀の机の上には二葉の写真。一葉は振袖を着た成人式の奈々、もう一葉は俺と加奈子と三人の写真。多分、九十五六年頃、向島の浜辺で花火をやった時の奴だ。  きっと、長い間、キョウジュの心の隙間を埋めるものはたったこれだけだったのだろう。  よく冷えたムートンガデの白をワイングラスに注ぎ、二十三年ぶりに酌み交わす酒はシャガールの青い夜のようにメロウで上質なチーズのように血液に溶ける。キョウジュもそれは同じようで、少しリラックスできたようだ。 「タミオが来るってわかっとったらクルン出したかったんじゃけど、パパが後援会の寄り合いで差し入れに持っていくけぇ、最近、ないことが多いんよ」 「ほう。キョウジュは普段、シャンパン飲んどるん?」 「いや。泡はあんまり好かん。来客用じゃ」  なんて話を聞いていると、我彼の生活格差を思い知るわけだけども、キョウジュは厭味も屈託もない。 「奈々のことは吃驚したじゃろ?」 「ワシ、二回も『加奈ちゃん』って呼んでしもうたで」 「ははは。あれでもこまい頃は顔も性格もワシそっくりでどうしょうかと思うたもんじゃけど、年々、似てくるんよ。DNAの神秘じゃ」 「そうじゃ。女は永遠の神秘じゃ」 「永遠の神秘に乾杯!」  理由をつけてはワイングラスを合わせる。  昔と何一つ変わらない。  変わったのは時代と年齢だけだ。 「キョウジュは再婚はせんのん?」 「加奈ちゃん以外の女とはありえんわ」 「気が合うのう。ワシも一緒じゃ」  また乾杯。  すると、不思議なもので心地の良い共感しか残らない。怨恨なんて恋も知らないガキの抱く感情だ。加奈子を失い、忘れられずに過ごした二十三年間の失望と後悔と望郷を表現する手段はない。仮に歌でも文章でもできたところで伝わるはずがない。それは形は違えど、キョウジュも同じだったのだ。  それは絶対に知られたくなかった特殊な性癖を知られてしまったみたいにうれし恥ずかしい一致だ。 「しかし、お互い大変じゃったのう」  俺がキョウジュの長年の労を労わると、キョウジュは遠近両用眼鏡をはずし、ハンカチでレンズを拭き、姿勢を正して、改まった。 「奈々が初めて熱を出した時、初めて生理になった時、反抗期で口利いてくれんようになった時、初めて男の子を好きになった時、ワシ、狼狽えることしかようできんかったわ。今ここに加奈ちゃんが生きとったらって、男親なんてよいよ役に立たん」 「そりゃしょうがなぁわ。浮気するし、しょうもない嘘つくし男はアホじゃ。アホじゃけん、しょうもないことに拘って、女に転がされながら生きていったらええんよ」 「タミオは強いのう。何十年も法施を積んだ徳の高い名僧みたいじゃ」 「筒井先生の影響かのう。まぁ、ゆうてもあのおっさんは名僧とは程遠いがのう」  そうではなく、達観と諦めなくして二十三年も海外で生きていけるわけがないのだ。正しいことや約束や常識がいとも簡単に蔑ろにされ、否定される世界でいちいち反論したり、執着したり、メランコリーになっていては身も心も懐もすり減ってしまう。  キョウジュは「先生、くしゃみしとってで」と苦笑して、パンオショコラを一つつまんだ。クロワッサンにビターチョコを挟んで焼いただけのフランスの家庭のお八つでよく出てくる奴だ。  俺は本棚に目をやり、「ふーん」と感心した。 「相変わらず、勉強家じゃのう。あいみょんや米津玄師はワシも好きじゃけど、アキモトグループやジャニーズやKポップの楽譜まである」 「弾けば生徒が喜ぶんよ。ワシらの頃と一緒じゃ。別に好きじゃないけど、こんなんでコミュニケーションが取れるんじゃったら安いもんじゃ。そもそも、ワシ、タミオみたいにあんまり喋るん得意じゃないし」 「そうじゃった。キョウジュの坂本龍一は最高じゃった!」 「なんか弾こうか?」 「ええのう」  自慢のミニカーを褒められたみたいに得意な笑みを浮かべると、ピアノの前に座り、「夜じゃけ、静かな奴な」と坂本龍一の『aqua』を弾き始めた。静寂でありながらも、生きる勇気の湧いてくる不思議で素晴らしいメロディだ。特に最後の半音あがるリフが力強くなるところに生命の歓喜すら感じる。  生きてまたキョウジュのピアノが聴けるとは!  キョウジュには絶対に言えないが、加奈子を意識し、キスするまでの淡い青春の日々を思い出し、幸福に浸っていた。拍手をするのも忘れて… 「タミオもなんか歌とうてぇや。あれ、あれがええ」 「え?」  キョウジュは左手でEのキーを弾き、「あれゆうたらあれよ」と前奏のメロディを鼻歌を歌うように軽快に弾き始めた。 『尾道スロウレイン』だ。  まさに、キョウジュの加奈子に対する切なる想いを聞いた時にまさに、このピアノを囲んで二人で作った曲だ。つまり、ビートルズの『サムシング』とクラプトンの『いとしのレイラ』を同時に作ったようなものだ。いや。ジョージとクラプトンがパティボイルドに贈る曲を競作したようなものだ。  そんな、普通ならば絶対にできるはずのない、まず作ろうと発想すらしない奇跡のような曲がこの『尾道スロウレイン』なのだ。
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