尾道スロウレイン

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翡翠色の春の海に降る雨は菫色 傷ついて目覚めた朝に辿り着いた 海岸通りで天使の記憶を失くし 抱きしめても逃げていったあいつの残香を 消しておくれ 尾道スロウレイン はじめから運命と知りながらも愛した俺を 嗤っておくれ 尾道スロウレイン 哀しみのように美しい 尾道スロウレイン  覚えているものだ。  二十三年も前に作った曲で、ライヴでやったこともなければ、無意識に口ずさむこともなかったというのに、歌詞を見なくても歌える。キョウジュも譜面など見ていない。もしかして、俺と違って、キョウジュにとっては意味のある、意味のあるどころか、己の人生を収斂したような曲なのかもしれない。そう思うと、もっと心を込めて歌わないと、彼の決して平穏ではなかった半生を軽んじることになる。 「二番いくで」 「おう」 白く煙る向島と朱く滲む千光寺 闇に消える前にあいつと暮らしたかった 夜のない街に夜の果てなどなく 静謐な瀬戸の海が歌う一世紀前の挽歌を 聴いておくれ 尾道スロウレイン 川の流れのように生きられぬ俺を 嗤っておくれ 尾道スロウレイン あいつの窓辺に降り注げ 尾道スロウレイン  錆のリピート前、本来ならここで八小節の哭きのギターソロが入るところだが、キョウジュのピアノが裏メロを奏でる。憎たらしいほどクラッシックの奏法だ。   あいつが選んだ見知らぬ明日と心変わりを 殺しておくれ 尾道スロウレイン 偽りの涙を詰れなかった俺を 嗤っておくれ 尾道スロウレイン   それでもまだ愛していると伝えておくれ 尾道スロウレイン 尾道スロウレイン  埋める必要のない余韻と余白にワインの酔いが混ざり、難事を成し遂げるか、不可能を可能にした者にしかわからない、何時間でも浸っていられそうな陶酔をキョウジュと分け合っていた。  たかが一曲で幸福になれる安い男たちと笑わば笑え。  貢がれた盗品のダイヤモンドと自分の足で探し当てた原石との価値の違いがわからない奴などこちらが嘲笑してやるさ。それこそ「安い男たち」だと軽蔑を込めて。  俺とキョウジュは黒人がするようにニカっと笑い合い、「やっぱりこれじゃのう」と固い握手をした。もう俺たちの間に確執もタイムラグも存在しない。  すると、控えめにドアをノックする音が聞こえる。  山の上とはいえ、夜は静かにが常識だ。 「熱唱してしもうた。ちいとうるさかったかのう?」  キョウジュはくだらない悪さがバレた子供のような気まずそうな顔をして、「ママ。ごめん。うるさかった?」と言ってドアを開けると、涙ぐみ、思い詰めたような顔をした風呂上がりの奈々が立っていた。 「どしたん?湯冷めするで」  キョウジュはいざとなったら身を挺して家族を守る父親の声で奈々を気遣うと、親の心子知らず。キョウジュのことは通り過ぎ、奈々は俺の胸に頬をうずめて「タミオさん」と湿った声でつぶやいて、泣き始めた。  女の子に泣きつかれたとき、諭したり、訳を訊いたりしてはいけない。ただ「僕は君の味方だよ」と髪を撫で、全肯定するのがセオリーだが、相手はキョウジュの娘である。好意と受け取られでもしたら、ややこしくなる。  困っていると同時に、俺はデジャヴを感じていた。  俺を追って、尾道駅に来た時の加奈子だ。  本当の心を欺けなくて流した綺麗なあの涙。花のように甘い肌とシャンプーの香り。この世で一番重く、尊く感じた、勇気を振り絞った「好き」という言葉。ただあの時のように「このまま連れて逃げることができたら」などと心は動かない。据え膳食わぬつまらない男だと後ろ指さされそうだが、何よりもキョウジュの娘だし、ここに至るまでのストーリーがまだ何もないからだ。 「奈々ちゃん。ようわかったけぇ、今日はこのまま休もうな」 「はい」  奈々はピジャマの袖で涙を拭きながら、泣いたことすらなかったように「パパ、お休み」とそっけなく言って、自室に戻っていった。 「おい。奈々。おい。おいっ。どうしたんかのう?いつもはあがぁに感情出す子じゃないんじゃけど」  キョウジュはそれこそ奈々が初めて熱を出した時もきっとそうだったように、いつもの冷静さを失くし、すっかり狼狽えている。 「あの歌になんか感じて、思うところがあったんじゃないんか?加奈子に捧げた曲じゃけん、いや。ワシにもようわからんのじゃけど」  本当は奈々の涙の訳をおぼろげながらに理解している。俺はそこまで鈍くない。だけど、それをそのままキョウジュに伝えるのは今風に言うと「空気の読めない大馬鹿野郎」ということになるし、親しき仲にも礼儀ありなのだ。そして、次はキョウジュを取りなす番だ。 「まぁ、あれじゃ。飲みなおそうや」 「そうじゃのう。悪かったのう、奈々が…しかし、タミオの言うことをえらい素直に聞くんじゃのう。どっちが父親かわからんで」 「まぁ、それが説得力ゆうもんじゃ」  そう軽口を叩くと、またセッションをしたくなるのだが、また奈々に泣かれても困るので、夜が更けるまで思い出話に花を咲かせていた。
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