尾道スロウレイン

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 義晴と会うまでの一週間はこのご時世にしては珍しく、外国人のツーリストの宿泊が相次いだので、ボランティアで市内のガイドをやったり、しまなみ海道を四国まで一緒にサイクリングしたり、ちょっとしたコンセルジュとして色々質問を受けたり、亀井と一緒に手によりをかけた手料理を振舞ったりしてで、東へ西へ忙しくしていた。  勿論、気は遣うし、心から楽しみ、喜んでもらうというのは楽ではなかったが、そういう条件でただで個室を占有しているのだから、それは契約を履行してるに過ぎないのだけど…  中でも香港人のカップルを千光寺に連れて行ったとき、絵馬に「光復香港天滅中共」と書いて祈願し、奉納したことが強く印象に残った。あの夜景が美しく、スタイリッシュでエネルギッシュでアジアを動かす才能の集まるあの街に今や「自由」が存在しないことに俺は打ちのめされそうになった。  俺は「美夢成真天佑香港」と北京語で言って二人を励ました。俺とて中華社会の隅っこで呼吸をしていた人間である。無関心を装うことなんてできやしない。  深夜、部屋に戻って、やっと一人になれると、こないだキョウジュと会った日に着ていたバンコクのジムトンプソンのバーゲンで買った青いタイシルクのシャツの胸の部分を嗅ぐ。奈々の匂いが移っているから洗濯していないのだ。  それはあの日、奈々に惚れたからではない。加奈子と全く同じ体臭だからだ。  つまり、俺は加奈子を想っているのだ。  それがどんなに愚かで、最低な徒労であるかなんてことは俺が一番わかっている。  全てが輝き、全てが引き裂かれたあの季節を忘れるにはさらに光溢れる日々が訪れるか、加奈子以上の女とめぐり合うかくらいしかない。  つまり、今世ではほぼ不可能に近い。  奈々がその候補として手を挙げてきたとしたら?  俺はその考えを全否定し、わざとらしいくらいに大きく首を振った。 「タミオさん、まだ起きてます?」 「おう。起きとるよ」  さっきまでオーストラリア人の船乗りブライアンとどこの港の女がよかったか?なんてくだらない話を顔を突き合わせ真剣に論じ合っていたほろ酔いの亀井が障子の間から顔を覗かせた。 「これ、陳君からタミオさんにって。お礼だそうですよ」 「学生がモエシャンなんか無理せんでもええのに」  俺は濃い緑の泡瓶を見て苦笑しながらも、気持ちがうれしく、明日から毎朝、香港の方角に向いて、香港の平和と自由を本気で祈ろうなどと思った。 「タミオさんは、日本人なのに香港人の気持ちが分かっている。チャイニーズよりチャイニーズだって褒めてましたよ」 「それホンマに褒めとるんかいのう?」 「さぁ」と亀井は肩をすくめ、「ところで明日は何時に出られるんです?」と部屋を見まわしながら訊いた。 「夕方の客の少ない時間に筒井先生が段取りしてくれたけぇ、お昼過ぎに出りゃ間に合うじゃろ」 「弟さんといい話ができたらいいですね」 「ありがとう」 「それと、余計なことですけど、そのシャツそろそろ洗濯したほうがいいですよ。ランドリーに出しときましょうか?」 「…」 「余計なことでしたね。おやすみなさい。朝方、資源ゴミは僕が出しときますね」  多分、亀井にはさっきの恥ずかしい光景を盗み見られ、勘の鋭さからだいたいのことは察しているのだろう。  俺は少し厭な汗をかいた。
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