山河童

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 足元に刻まれた目印に集中して進んでいれば、一度は開けた風景は再び静まり返った草木で覆われていた。  森の中へ突入していても、獣道には無数の水掻き足跡が刻まれている。一体どこまで逃げていったのだと言いたくなるくらい、足跡はかなり遠くまで残っていた。畠中は試しに懐中電灯の限界まで照らしてみるも、限界からさらに先にまで足跡は残っているようだった。この森の奥に一体何があるのだろうか。  本来ならばこの異常に静まり返った空気を少しでも変えようと話しかけてくるショウコ。だが「山河童がこの先にいる以上変に音を増やして警戒されては目的達成ができなくなってしまう」と畠中に言われてしまっては、話しかけるという選択肢は必然的に消えてしまった。お陰様で森は本当に異界へと繋がってしまったのではないかと錯覚してしまうくらい異様に静かである。ショウコは少しでも自身を安心させるために、獣道を懐中電灯で照らしながらもなるべく畠中に引っ付いていた。今の彼女の安心材料は畠中の体温のみである。  一歩、また一歩と着実に足跡を追っていると、あの時風に乗って漂ってきた形容し難い汚臭が段々と強く鼻を突っついてくる。風が吹いている様子もなく、記憶に刻まれてしまったとは言え森に入ってから臭いはしていなかった。畠中たちから逃げているのだからかなり遠くまで行っているはずだ。なのに臭いが強くなっていく。 「(もしかして待ち伏せされている……?しかし待ち伏せするには体臭が強すぎて不向きだろ。自覚無いのか?)」  臭いが一段と強まったところで、畠中は己の足を止めた。 「(もし本当に待ち伏せされているのなら、一体何が目的なんだ。警戒するに越したことはないな)」  頭を垂れて獣道を照らしていた懐中電灯をくるくると周りを照らして警戒態勢に入る畠中。そんな彼の様子にショウコは一段と不安が強くなった。 「ねえせんせー、どうしたのとつぜ──」  先程までと様子の違う畠中に我慢できず、ショウコが話しかけた時だった。  畠中が左側の草木に注意を向けている隙に、上から突如何かが音を立てて落ちてきた。  予想外すぎる突然の登場に、ショウコは無意識に叫びそうになる。しかし人間本当に驚くと声も何も出ず、ショウコの口からは呼吸の詰まる音しか出て来なかった。  畠中は突如登場したそれに反射的に光を当てると鮮明にその姿が写し出された。  成体の雄猿が大体六十センチだとすると、目の前に落ちてきたそれは約一メートルだろうか。毛が一切なくシワシワな皮膚を露にし、やせ細っている割には腹が異様に出ているグールのような悪鬼のような猿は先程遠目で見た時と同じだが、その顔は異質だった。ミイラを彷彿させるその痩せこけた顔には爬虫類のような鋭い眼球が二つ装着されており、口元には牙の生えた短い嘴が鎮座していた。甲羅も皿も何も無い。色も緑ではない。むしろ薄汚い灰色である。  河童らしい要素はその短い嘴と水掻きのついた足くらいで、これが河童ですと学会で発表したら大ひんしゅくを買うだろうなと畠中は全然違うことを考えていた。  だが今は現実逃避をしている場合ではない。  山河童の片腕が真っ直ぐ二人へと伸びる。  通常ならば一切届かないであろう距離にもかかわらず、山河童はその場から一歩も動かずに片腕をホースのように伸ばした。その河童らしい特徴に思わず感動してしまった畠中は次への行動が遅れてしまい、ゴムのように長く伸ばされた山河童の腕はいとも簡単にショウコを捕らえてしまった。  そこからは速く、畠中が「あっ」と思った瞬間には山河童の片腕は掃除機へと仕舞われていく電源コードが如くシュルシュルと縮まっていく。隣にいたはずのショウコはあっという間に山河童に俵担ぎをされ、瞬きした瞬間には山河童は畠中に背を向けて走り出していた。自身の体格よりも明らかに大きいショウコを担いでいるにも関わらず、山河童の足取りは非常に軽い。これが妖怪なのか……と感心している畠中だが、明らかに感心している場合ではない。最後に見えたショウコは顔をかなり青ざめて、畠中へと手を伸ばしていた。それは体臭の酷さによるものか自分の状況に対する絶望か、それともその両方か。己に目に焼き付いた乙女の表情にようやくハッとした巨人。ショウコが連れて行かれる際に手から滑り落ちた懐中電灯を慌てて拾い、畠中は急いで見えなくなった山河童の背を追いかけ始めた。
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