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神隠し
S県にあるヒラサカ村は、東京からいくつもの電車とバスを乗り継ぎ、さらに木々が生い茂る獣道を何十分も歩いてようやく辿り着ける、山奥にある非常に小さな村である。
そんな秘境と言っていいレベルの村に、無造作に伸びた髪を少しでも見栄え良くしようと一本に結ばれた髪に、筋骨隆々だが眼鏡によってどこか知的な雰囲気を漂わせている男が訪れていた。
名は畠中千尋。とある東京の大学で助教をしている三十二歳の男だ。
彼の専門は民俗学。民間伝承を主な資料として日本人の日常生活文化の歴史を紐解いていく学問――簡単に言えば「日本人とは何なのか?」を文化面から問いただしていく学問である。その中でも彼は特に祭りについて研究をしており、大小関係なく日本全国にある祭りを己の足と目で調べていた。
そんな彼が何故このような辺鄙な村へとやってきたのかと言えば、数十年に一度しか開かれない非常に珍しい祭りがあるらしいからだ。「らしい」と言う表現がされているのは、とある一冊の資料にその一文しか書かれていないからである。一体どのような、どういう意味の元、目的もやり方も一切書かれておらず、他の資料には一切載っていない。しかしその唯一の資料には存在するようだと表記されたその祭りに、畠中は非常に惹かれた。世の中には門外不出の祭りが存在し、もしかしたらその類なのかもしれない。もしそうだったとしても、ヒラサカ村そのものについては何も知られていない。だから村そのものについて調べるのも悪くない。何か珍しい民間伝承が聞けるかもしれない。そんな思いを胸に、畠中は大荷物を抱えて遠路はるばるやってきたのだ。
緑で生い茂った獣道を進んで開けたかと思えば、そこには昔の古き良き日本の原風景のような農村が広がっていた。思わずタイムスリップしたのかと錯覚してしまうほどである。しかし軽トラや農業機械が村の廃れたアスファルトの上をノロノロと走っているので、決して時間を遡ったわけではないことがわかる。
なるほど、これだけ山奥にあって閉ざされていればこうなるか、と畠中は内心納得していた。某検索エンジンが運用している地図で村の存在を大方把握していたつもりでいたが、実際この目で見てみないとこのどこか物寂しくも感じる懐かしさはわからない。村のホームページも何もないから本当に情報が無いのだ。今思えばよくもあの資料を見つけたなと、畠中は自分に色々な意味で感心していた。
——これだけ時代が止まった村なら何か面白いことが聞き出せそうだ。
真顔の仮面が貼りついたその顔とは裏腹に胸を躍らせている畠中は一歩、村の中へと踏み出す。先程まで舗装も何もされていない小石だらけの獣道を延々と歩いていた足は、廃れていてヒビも入っていてデコボコしているにも関わらず久々のアスファルトにどこか喜んでいるようで、畠中は自分の足が軽く感じていた。多分それだけではないと思うけど。
住居のある東京を早朝に出たにも関わらず、太陽は西の方角に傾き始めている。
「(早くどこか長期で宿泊できそうな宿を……ああ、いや。早くこの村の伝承を聞きたい。あわよくば祭りについても聞きたい。こんなに心が弾むのは久々だ!)」
胸中はこんなにもはしゃいでいるのに、顔は完全に真顔。表情が読めないとはまさにこのことだと一発でわかる瞬間である。
畠中は逸る気持ちを必死に抑えて、その辺の見慣れない野菜を育てている畑で作業をしていた老人に声をかけた。
「あのー、すいません」
少し張り上げたバリトンボイスを運よく聞き取れた腰の曲がった老人は、下を向いていた顔を上げて畠中の存在を認識する。
大荷物を抱えた巨人に一瞬驚いて老人は目を見開くも、すぐ笑顔になった。
「おや、珍しいわねぇ。道にでも迷ったのかい?」
老人はよっこらせと呟きながら畑から離れて、態々畠中の近くまでやってくる。
そんな老人に内心感謝しながら、畠中は老人の質問に答えた。
「ああ、いえ。少々こちらの村に用がありまして。ヒラサカ村について詳しい方とかご存じないですか?」
「ああ、それならヨモさんの家に行くといいよ。ヨモさんはこのヒラサカ村の長だから一番詳しいはずだよ」
「ヨモさんですか。えっと、どちらに……」
「ここの道を真っ直ぐ行ってな――」
丁寧に道を案内してくれている老人の言葉を一語一句聞き逃すまいと、その巨体を屈ませて耳元を近づけながらメモを取っていく。村そのものが小さいからか、村の長だという四方家まではそう遠くはなかった。畠中は親切な老人にお礼を伝えて、早速早歩きで四方家へと向かっていった。
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