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ただ、俺と同じくらい維新も不安でいてくれたのは、痛いほどわかった。ちょっとやそっとじゃ歪まない口の端が下がっているから。
俺は維新の服を掴み、もっとかがませると、笑みの形のキスをあげた。
触れるだけにして唇を離したとき、あの携帯が頭に浮かんだ。
「GPS……?」
確認するように目を合わせると、維新は頷いた。
「いま気づいたのか」
「うん。ぜんぜんわかんなかった」
「念のためにな」
「……維新が?」
「俺が頼んで、黒澤さんと杉田先輩がつけてくれた」
「なるほど。……だからか。俺が先に着替えさせられたの、変だと思ってたんだよ」
しっかし、当事者の俺だけが知らされてないって、よほど信用がないみたいで納得がいかね。
そう唇を尖らせていたら、まだ若干口角の下がっている維新が言った。
「位置を把握できていたといっても、お前の顔を見るまでは気が気じゃなかった。車の中だからって、なにもされないとは限らない」
維新はもう一度、俺の全身へ目を配った。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって。なんにもされてねえし。……携帯取られただけで」
「卓」
「……取られたっ、だけ」
いまになって、堰を切ったようにいろんな思いが溢れてきた。
喉の奥から熱いものも湧き上がってくる。
「なんにもされてねーもんっ」
「わかった。わかったから」
維新があやすようにして俺の背中を撫でてくれた。
ひとたび溢れ出てしまった涙は自分でも止められない。あの風の音に負けないくらい、俺はわんわん泣いた。
俺の涙が止まるまで、維新はただ黙って、そばにいてくれた。
頭も、ときたま撫でてくれる。
しゃくり上げが治まったころ、俺はジャンパーの袖口で涙を拭い、便器のフタに腰かけている維新を見上げた。
「ねえ。あのさ。俺の顔、ひどくね?」
「……顔?」
少し体を引いて、維新は目を動かした。
「いや。とくには」
「化粧とかぐちゃぐちゃになってんだろ」
「普通に見れるよ。もともとそんなに濃くしてないらしいから、いつもと変わらない。大丈夫だ」
俺は空目で前髪を見た。
「このカツラもぜんぜん取れねえんだよ。ウケるだろ。でも、あの雨の中走ってきたから、さすがに顔は怖ろしいことになってんじゃねえかと思ったんだけどさ」
普通なら、まあいっか。
と、安心してみて、ちょっと首をひねった。
それって……ほんとにいいのか?
「カツラは、劇中にどんなハプニングが起こってもいいように簡単には取れないようになってるんだろ」
「へえー……。ってか、どんぐらいのを想定してたんかな。あんなことがあっても取れないってことは」
さあ、と鼻で笑ってから、維新は腰を上げた。俺の二の腕をちょっと持ち上げる。
「まだ立ち上がれないか? トイレにこもったままもあれだ」
「……あ。そうだよね」
「みんなも待ってる」
「うん」
俺は維新に支えてもらいながら立ち上がって、個室から出た。
「そういえば、あいつらどうなったの?」
「黒澤さんたちが押さえたと思う。ここに着いてすぐ車の目星をつけていたから。俺は、それよりも先に卓を見つけたから追ってきたけど」
聞きながらトイレの出入口へ目をやると、マキさんの姿があった。
そのとなりにもだれか立っている。黒のブルゾンを着て、黒のスラックスを履いている。眼鏡をかけているし、背も高くスマートな出で立ちだったから、俺は黒澤かと思った。
でも、顔をよくよく確認して、見たこともない人だというのに気づいた。
風は相変わらずびゅうびゅうだ。髪が宙に舞う。
トイレから出るときに横を見たら、立ちションの便器が並んであった。用を足していた男の人がぎょっとして俺を見る。
……ここ、女子トイレじゃなかったんだ。
ちょっとほっとした。維新が、変態痴漢呼ばわりされなくて済む。
マキさんへ近づくと、維新と同じくらい濡れていた。それだからか、自信に満ち溢れているいつものオーラはなく、しょんぼりしているようにも見えた。
マキさんがいまにも泣きそうな顔をしている。眉間にしわを寄せ、口はへの字に曲がっている。
俺が努めて明るく声をかけようとしたら、マキさんのとなりにいた男の人が視界へ入ってきた。
「きみが中野くん?」
俺は頷いて、後ろの維新にも目をやった。
マキさんと一緒にいた男の人は、スラックスのポケットから二つ折りの手帳を出して開いた。
「ちょっと話いいかな」
ケーサツの人だった。
テレビドラマでよく見るあの金色を見せ、またポケットにしまう。
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