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失敗を活かし、予定時刻より早めにカフェを訪れる。
前回は女性を待たせたことが敗因だったのだろう。相手は早くレストランへ移動することを望んでいた。カフェを中継したこと自体が気に障ったのかもしれない。
とはいえ、この場所を指定したのはエレーヌである。発起人が決定した事項を覆すことは、タイラーの信条に反する。
予定は遂行しなければならない。できるかぎり、正確に。
そういった意味でタイラーに失態があったとするならば、あのとき、飲食したことではないだろうか。
店員に促されるまま注文をしてしまった。あれがまずかったと考える。
(行動はまずかったが、クッキーの味は良かったな)
ホロホロと咥内で崩れることで広がった味。初めての感覚だった。再度求めてもよいと思えるほど、心に刻まれている。
八番通りに入り、先週も訪れた店の扉を開く。
記憶のままに届く珈琲の香り。そして、出迎える女性店員。黒髪をうしろでひとつにまとめ、穏やかな笑みを湛えている。
「いらっしゃいませ、おひとりですか?」
「待ち合わせを」
「では、窓際へどうぞ」
窓からの採光以外に強い光源はなく、店内は奥へ向かうほど薄暗い。だが、その静かな佇まいが、この空間を居心地のよいものにしていると感じる。
時間が凍結してしまったかのような感覚。
タイラーは思わず懐中時計を握りしめた。
「ご注文は」
「いや――」
「本日の茶菓子は、ブラウニーなんですよ。クルミ入りです」
その言葉に、心が揺れた。
今回は「すぐに出るから結構」と断るつもりだったが、菓子と聞いてしまうと欲が生まれる。
なにを隠そうタイラーは菓子が好きだ。冷ややかな風貌をした怜悧な青年の嗜好を知っているのは、大叔母ぐらいではないだろうか。
タイラーの顔から何かを読み取ったのか、店員はふわりと笑みを浮かべると「かしこまりました」と言い背を向ける。この時点で断りを入れるのも店に対して悪いような気がして、タイラーは着席した。
大丈夫だ。余裕を持って来店している。予定時刻まで猶予はある。
それに女性は甘いものを好む者が多い。珈琲の一杯を共にするぐらい許容されるだろう。
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