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最適な順路を考えていると、女性店員が近づいてきた。
着席したからには、注文するのが筋だろう。
愛用の懐中時計に視線を落とす。
レストランの予約にはまだ間に合う。移動時間を加味しても、珈琲の一杯なら支障はなかろうと判断したタイラーは、注文を告げると改めて目前の相手に向き直った。
ステファニーは、目鼻立ちのはっきりした女性だ。紅いルージュを引いた彼女の唇がゆっくり開いたとき、タイラーの前にカップが届いた。立ち上がる香りに、惹かれるように指をかける。
「タイラーさん」
女の声には、やや苛立ちが混じっている。
次の店へ行こうという圧を感じるが、タイムスケジュールには、この一杯がすでに組み込まれた。問題ない。ここから次店への移動時間はじゅうぶんにある。
添えられていた二枚のクッキーを咀嚼。
素朴なバタークッキーはほろりと咥内で崩れ、珈琲で流し込む作業に没頭。
その間、一切の会話はない。タイラーにとって今は飲食の時間であり、対話の時間ではないからだ。
食べ終わるのと同時にカップの中身も空となり、満足したところで席を立つ。
「では、向かいましょう」
「馬車は?」
「それでは遠回りとなります。近いルートがあるので歩きましょう」
タイラーのルート選択は完璧だった。
誤算だったのは、ステファニーの歩行速度だ。
先導するタイラーの背後からはヒールの音が届くが、そのリズムは極めて遅い。
「申し訳ありませんが、もう少しだけ歩く速度を速めていただけませんか? 今の状態では、レストランへ辿り着く時刻が十五分ほどずれこみます。その場合、次の予定が詰まることになるでしょう。具体的には、訪れる店をふたつほど削っていただくことになります。たしか宝飾店を五店舗でしたか。眺めるだけならば問題ありませんが、もしも購入を考えていらっしゃるのであれば、一店舗に絞ったほうが時間が短縮されると思われます。いかがいたしますか」
返事は、顔面に受けたワインレッドの鞄だった。
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