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変身薬
エヌ博士は街はずれの研究所にひとりで閉じこもり、変身薬なるものを開発した。
「よしよし、労力と費用をつぎ込んだかいがあったというものだ」
ものがあふれる机の上に白い錠剤の入ったびんがある。この薬を作るために博士は膨大な時間を費やした。
「どれどれ、もう一度効果をたしかめてみよう」
博士がびんのふたを開ける。なかから一錠を取りだして、口に入れた。その薬を飲みこむなり、博士は呪文のように同じ言葉をくり返す。
「絶世の美女になれ。絶世の美女になれ」
すると、博士の顔がみるみるうちに変わった。さえない顔から整った顔へ、魔法のように変化する。博士は薬の効果をたしかめるため、鏡の前に立った。
「これはすばらしい。思ったとおりの顔だ」
鏡のなかには広告やドラマで見るようなうつくしい女性の顔があった。自然と背筋が伸びる。手の先まで気を使う。もっとも、体格と声が博士のままなので、完全な美女になったわけではない。博士の開発した薬は自分の顔を好きなように変えられる薬だ。効能だけ聞くと、ただただ便利なものに聞こえるかもしれないが、それは事実と異なる。
自分の思ったように顔が変わるのだから、薬を飲んだあとは顔のことだけに集中しなければならない。途中でほかのことを考えるなどもってのほかだ。博士も安定して集中する技術を会得するまでは時間を気にして時計の顔になったり、おなかが空いてパンの顔になったりした。そんなひとの顔とは言えないような顔面になっては外に出るわけにもいかない。おとなしく数時間待って薬の効果が切れるのを待つ。効果が切れると、ふたたび薬を飲んで変身を試みる。失敗しては挑戦するのくり返し。修行僧のような努力をしてこの変身薬を使いこなせるようになったのだ。
さて、この薬を博士がなにに使うかだが、それは盗みである。
夢がないと思ったかもしれない。しかし、現実は小説のようにうまくいかないものだ。薬の効果は数時間しか持たないから、変身した顔のままで生活することはできない。ちょっとしたジョークグッズとして売ろうと思っても、変身するまでの過程が過酷すぎてとても人気は出ないだろう。
夢に満ちた使い道はないが、薬を作るために借りた金はふくらんでいる。博士はその処理をしなければならない。そこで思いついたのが盗みに薬を使う方法だ。手順はいたって簡単。この薬を飲んでてきとうな場所へ盗みに入ればよい。金品を奪ってくれば返済の足しになる。
誤解してはならないのは、盗みに入るといっても世間をさわがす怪盗のように大豪邸を狙うわけではない。博士が目指すのは警備の甘い庶民の家だ。いくら顔を変えられるといっても盗みの腕はしろうとである。現行犯で捕まってはなんの意味もない。豪邸に比べて、一般家庭なら博士にも入りこめるすきがある。防犯カメラや警報装置がついてない家はたくさんあるだろう。万が一、顔を見られても博士とは別人の顔だ。指紋や足跡などの痕跡を残さなければ十分やれる。
それに窃盗事件は毎日山ほど起きていると聞く。警察が本当に捜査しているのかあやしいものだ。現に数年前近所の家に入った空き巣が、その後捕まったという知らせはいまだに聞かない。
こんなわけで、博士は任務を開始した。薬を飲んで顔を変え、忍びこみやすいような家を探して歩く。はじめは探しているうちに薬の効果が切れることがしばしばあった。だが、多少の困難でめげるわけにはいかない。どんなベテランの空き巣だって最初は未熟だったのだ。博士は薬を飲んでは入るのが簡単そうな家に忍びこむことをくり返した。
犯行を重ねるうちにある程度のコツがつかめてきた。盗みの手口も洗練され、金品を奪う効率もよくなる。だんだんと余裕の出てきた博士はときに防犯カメラにわざと顔を映すまねをした。いたずら目的だけではない。別の顔を映すことで捜査をかく乱できる。そう考えた。いくら警察でも変装した顔だとは思わないだろう。
博士の思惑どおり、警察は事件の犯人を逮捕できないでいた。薬のおかげもあったし、博士が注意深く犯行を重ねたせいもある。特に意識していなかったが、顔が変わることは犯行によい影響があった。どうも、その顔にあった身振りになるらしい。うしろすがたを見られてもだれも博士だとは気づかないわけだ。
相次ぐ成功に気分を良くした博士は反省することなく犯行を重ねていった。盗む方法は体に染みつき、いまでは目をつむっても目的の金品も持ちだせるほどだ。気分の良い日は酒を飲んで出かけることもあった。たまに警察が防犯カメラに映った人物を公開することがあったが、どうせそれは博士の顔をしていない。博士は見ようともしなかった。
月日はたち、博士にとって盗みは日課のようになっていた。
「今日も行かないといけないのか。いい加減めんどうになってきたぞ」
酒のびんが散乱する部屋で寝ころびながら博士がいう。テレビが生まじめにニュースをたれ流している。部屋の四隅にごみが積みあがっているが、博士は気に留めない。
「それもこれもわたしの作った薬がいけないのだ」
眠そうな目でひとりごとをこぼす。真夜中の空気が重くよどむ。
「大豪邸から大量の金を奪うような薬を発明すればよかった。それならば一回きりの犯行で遊んで暮らせたものを」空になったびんを部屋のすみへ投げる。ガラスが割れる音がした。「どうにも中途半端な薬を作ってしまったようだ。毎日のようにこつこつと盗みを働かなければならない。これでは、会社勤めとなにも変わらないな」
博士がひとりで笑った。なにげなく視線をテレビに向ける。博士の顔が引きつった。
「や、テレビにわたしの顔が出ている。いったい、どういうことだ」
テレビ画面に窃盗犯の映像が流れた。そこに映っていたのはまぎれもなく博士本人の顔だ。いつものくせで防犯カメラに向かって挑発的な態度をとっている。一気に酔いがさめた。
「まさか、薬を飲みわすれたのではないだろうな」
いてもたってもいられず立ちあがる。
「いや、そんなばかな。たしかに飲んだはずだ。いつも飲んでいるではないか」
助けを求めるように博士は訴えた。しかし、犯行の映像はそれを否定している。気のゆるみから出たささいな失敗だ。小さなできごとだが、その代償は大きい。
博士が髪をかきむしりながら部屋のなかを行ったりきたりしていると、玄関のベルが鳴った。石像のように博士の動きが止まる。
「きっと警察だ」
直感した。悪いことは重なるものだ。体から熱が引いていく。いつの間にか全身が汗で濡れていた。すこしでも気を抜けば地のそこへ落ちてしまうようなめまいがする。
「なにか、なにか方法はないか」
どんな手段を使っても、この場をしのぐ必要があった。とりあえずのごまかしがきけばまだ助かる可能性はある。あわただしく動く博士の目が薬のびんをとらえた。
「この方法しかない」
びんをつかみ取ってなかの薬を飲みこむ。歓迎されない来客がドアを叩く音が聞こえた。博士が必死に頭を振る。
「顔を変えることに集中するのだ。有名人の顔はだめだ。まっ先に怪しまれる。いままで使った顔もだめだ。警察に顔が知られているかもしれない。だれもが見たことのない顔に、変化したことのない顔に、普通では考えないような顔になれ」
自然とこぶしに力が入る。時間はない。応答しなければ警察は強引に踏みこんでくるだろう。ノックの音は、大きくはげしくなっていた。
「いるのでしょう。わかっていますよ。はやく出てきてください」
「な、なんでしょうか」
博士がとびらを開けた。ふたりの警官が博士の顔を見る。目を丸くして、口もきけないようだ。予想とちがう顔が出てきておどろいているのだろう。うまく変身したとばかりに博士は愛想よくしゃべった。
「ひとちがいではないでしょうか。ここはわたしの家です。それともわたしの顔に見覚えがありますか」
「見覚えがあるとかそういう話ではない」やっとのことで警官は口を開いた。「なんだ、その顔は。まるで化けものではないか。尋常ではない。人間の顔とは思えない」
「いや、わたしは人間で――」
どんな顔になったのだろうと、博士が自分の顔を触る。肝が冷えた。鼻があるべき場所に得体のしれない穴が開いている。おでこに手を移すと、三つ目の目が指に触れた。同じ顔を避けよう避けようと念じた結果、人間ばなれしたぶきみな顔面になったらしい。
「とにもかくにも事情を聞かせてもらおうか。わたしたちが来るのを知って変装したつもりなのだろう。そんな安っぽいマスクで警察がだませるものか。どうせやるのだったらもっと巧妙にやるのだったな」
変装ではなく変身なのだが、わかってくれたところで解放はされまい。博士はなさけなく連行されていった。
〈了〉
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