⁽speech⁾

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 男はテープ・レコーダーをデスクに置くと、一人語り出した。 『かつてポスト構造主義者にて、脱構築、つまりはデコンストラクションを唱えたフランスの哲学者であるジャック・デリダはロゴス中心主義、これまたつまり、パロールである音声中心主義を上位概念の隘路と批判し、エクリチュールである本来は伝統的には下位概念ともする文書表現を擁護した。しかし、その思考と思弁は余(よ)にとっては、否! デリダはここで過ちを犯している事に自意識的ではないのである。口述こそが創造主より与えられたもうた人間の秘技であり、文字たるものは所詮、アダムの肋骨により派生したイヴからの系譜による、俗物にして俗悪なる人間どもの編み出した小賢しい方法論、敷衍して記号論に過ぎない。だからこそ敢えて書に残すのではなく、テープ・レコーダーを用いて、余の声を以てしてイデオロギーを伝えるのだ。そういう含意があるなど腑抜けかつ間抜けなキサマら一般大衆は気づかんだろう、けっ! そうだ。そして、デリダはこうも言っている。民衆は支配する者でもあり、同時に支配される者でもある、と。余は後者の意見には賛成であるが、前者の見解には納得がいかん。回転する車輪のように両者は入れ代わり立ち代わりその役目をこなす、と言っていたがデリダはここで民衆に対してある種の期待をしている。このデリダの観念も、また、過ちだ。烏合の衆に何の役割を与えるか。だからこそ余は市谷駐屯地の三島が如く、吠えるのである、叫ぶのである。まあ、余の超高度にして高邁な理念や思想をキサマらに啓蒙しても、キサマらは馬耳東風にして、余の説を絶唱した労苦が虚脱感に襲われるのは容易(たやす)く予想されるが、せめてキサマらの精神革命の一助になる蓋然性も無くはないので、ゼロサム的な感覚で貴重な余の人生青写真の時間を割いて教授してやるわ、この薄ら低能ボンクラのデモス(大衆)どもがっ! 余の中ではデモスは庶民や民衆という意味ではない。ただの愚昧の下下(げげ)の群衆として定義して使う。つまり、キサマらこそがデモスなんじゃ、サノヴァビッチ! その点は注釈の変換を要求するので理解するようにしたまえ、下流国民どもの諸君。それぐらいのリテラシーは低スペックのキサマらの胸襟でも脳内作業処理できるだろうに、かっかっかっ! 要するにキサマらはただのデモスに過ぎん。にも関わらず情報網の発達、端的に言えばインターネットの充実による、気軽で簡潔に自らの主張を発信できるインフラ整備、所謂、情報化社会になって幾星霜、愚図どもが勘違いしてオピニオン・リーダー気取りになり、世の意見や具申の質は著しく低下した。それはデモスによる悪情報の猖獗、正論の陥穽、信頼性欠如の隘路。そう、デモスはただただ無為に無責任に恣意的な吹聴者になっているだけ。言うまでもなく愚昧なデモスの言葉など信用を置けないのに、然(さ)も世の代弁者の如く振る舞う。クソにたかるハエの分際で何を大上段から構えるか、余は理解に苦しむなり。デモスを蛇蝎の如く睥睨する余にとっては、不健全にして不潔にして不条理である! そう、プラトンがかつて唱えた哲人政治こそを以て世情は進まねばならぬのだ! 衆愚政治に堕する民主主義は所詮、数の論理による詭弁。現代では多数決イコール民意の反映やら民主主義の本意(ほい)と誤解しているが、真の民主政治とは俗世間的でない正しき示唆、それも優性人種の意見の尊重。当時のギリシャで言えば哲学者こそが選民の長。だからこそデモスを啓蒙するためにソフィストが、衆愚を導かなければならなかったのだ。政治を哲学者が動かさなければならなかったのだ。一部の優良種たる人間が。ベンサムの最大多数の最大幸福の理屈は、デモスの我意と社会の退廃を助長するだけ。詰まる所、豚どもはブヒブヒ鳴いているだけで、何も喋んなポーク野郎どもが、ミンチにするぞハンバーグ! ハンバーグ、ハンバーグ! ふぅ、ふぅ、思わずバカどもを想像して熱くなってしまったよ、失敬、失敬……いや、死刑! やはりデモスは死刑! 八丈島のキョン! 余が言いたいのは畢竟するに、大衆社会肯定への批判。平たくぶちまけてしまえば選民思想の絶対的必要性を説きたいのだ! その点においてはナチス・ドイツ、いや、国家社会主義ドイツ労働者党における全体主義国家体制は評価に値する。アーリア人の優秀性を標榜するため、ドイツ民からすれば劣等人種とされたユダヤ人をホロコーストした。さらにはユダヤ人ばかりではなく、ロマ民族やハンガリー人やポーランド人。そして、自国民でも高貴なドイツ民にそぐわない浮浪者や同性愛者、病人やそれに付随する不具者、ひいては健康体として生まれる事が望めない嬰児を予め断種するという措置も執っていた。健全なる精神は、健全なる肉体に宿る、の精神をここまで徹底したのは称賛すべきこと。生産性のない人間を排除もしくは淘汰するのは自然の摂理。社会的ダーウィニズムの解釈からすればいたって正論ではないか。迫害されたユダヤ人でありながらドイツ思想家でもあったハンナ・アーレント女史ですらも、私的領域や公的領域などの用語を使い、デモスに対してはかなり懐疑的な見解を示唆している。もっともその論調は全体主義に対する批判として受け止められているが、結局の所、デモスの多数派同調傾向の性質を見抜き、その上で一般大衆の日和見主義的な行動に問題を提起しているのだ。スペインの哲学者のオルテガなど、もっと露骨に大衆批判をしている。大衆とは自分でものを考えず、皆と同じであると感じる事によって安心する人間類型、だとか。大衆は宙ぶらりんの虚構の中で、とりとめもなく関心を浮遊させ、ふざけ合いながら生活している、だとか。ここまで直截的に言ってもらえば、もはや異論反論を超越して痛快でもある。デモスの非生産性や無能性をあまりにも端的に言い当てている。まさしく正鵠を射た意見だ。そもそもホッブスが唱えたような人間による自然状態があまりにも理想主義的だったのだ。アダム・スミスにおける神の見えざる手ではないが、市場経済は人為的な忙しい操作がなくとも自然発生的に健全に回るという考えでは、デモスの行動原理では通用しない。人間は自然状態のまま放逐されても、自治などは出来ないし統制もきかないのだ。一部の優秀な人間に指揮されてのみ愚昧な民衆は機能するのだ。それはマキャベリの君主論や、一方でアイデアリストと余は捉えていたがホッブスのリヴァイアサンのように、大きな権威のある者に身を委ねる体制をエクスキューズする所以に繋がるのではないか。一方、ロックやルソーはまだ人間の自然状態にまだ可能性を見ていた節がある。だが、その思想はユートピア的な期待、つまりは希望的観測に過ぎないだろう。デモスが如きに中途半端な存在に、自然権などを付帯した所で、その本質は彼(か)の奴らには理解できまい。むしろ社会契約を否定し、王権神授や君主制を連中には強いるべき。超越的、圧倒的なリーダーこそが愚鈍なデモスを導くのだ。シュンペーターも政治エリートこそが民衆を支配すべきと説いているし、エリート主義を批判するジェファーソン流民主主義を排し、やはり独裁制や寡頭制の政治体制に努めるのが国家の義務であり責務なのだ! 知識人の支配における、所謂、エピシトクラシーのアティチュードこそが望ましい。議会制民主主義は言わずもがな、熟議民主主義など不毛の極み。何をデモスどもに語らせるのか、アカンベーだっ! 一人の偉大なる指導者にデモスは操作されれば良い。マックス・ヴェーバーの言葉を借りればカリスマ型支配か。そう、そのカリスマ的指導者となり、自らの思想を現実にしようとしたのが、国家社会主義ドイツ労働者党の総統(フューラー)であるアドルフ・ヒトラーなのである。今一度、国家社会主義ドイツ労働者党を俎上に出すが、そのリーダーであるヒトラーこそがデモスを見事にプロパガンダで操り、大衆の圧倒的多数は、冷静な熟慮でなく、むしろ感情的な感覚で考えや行動を決めるという、非常に単純で閉鎖的なもので、そこには、物事の差異を識別する能力は無いとし、議会制民主主義の欺瞞を看破して、独裁的指導者原理を肯定する政治を実践した。このヒトラーの考えからもヒトラーは、個人における群れに過ぎないデモスに、何の期待もしていない事を顧みるのは容易だ。孤高のエリートこそが世を束ねる。一方、やはりドイツの哲学者であるユルゲン・ハーバーマスは市民的公共性や対話的合理性にデモスに対する可能性を見出したが、もはやそれはご都合主義かの楽観論。ハーバーマスの温(ぬる)い現実感が窺える。デモスに首輪を外す権利などないのだ。優れた牧場主によって家畜のように飼育されれば良いのである。そう、ただ黙々と。ハーバーマスはかつてヒトラー・ユーゲントに与(くみ)していたといのに、何をそんな甘っちょろい考えを標榜するのか余にはチンプンカンプンなり! フランクフルト学派の哲学に走ったのも理解できんわ。まあ、話は逸れたがヒトラーは余にとっては、有能な政治家であり卓越した策略家でもあるが、それ以上に優れた思想家でもあると思っている。志半ばであったが、ヒトラーは自らの信念や理念をジェノサイドという形で実践した。その労力たるやを慮ると、涙がチョチョ切れる程の偉業であり、破天荒の極み。スターリンや毛沢東とヒトラーは同列に語られる事が多いが、彼らとはドラスティックな部分で行動原理が違う。ヒトラー以外の二人は私利私欲の上で自らを奮い起こし独裁を働いたが、彼らはあくまで一党独裁を背景にしてデモスの心を掌握せず、つまり、人民投票という結果を経ず国の支配を行った。だが、ヒトラーは人民に選ばれて国家社会主義ドイツ労働者党を率い、大統領と首相を兼ねた地位にまで上り詰めた民族指導者。言わば正規の手続きを行い国家のトップとなったクリーンすぎる独裁者なのである、ヒャッハー! デモスの主権支配を避け、有能なるヒトラー個人の評価の結果、皮肉にも民主主義によってその指導者へ国家を委ねた、強い先導者の独裁を欲した。もっともデモスとはいえ、アーリア人、ゲルマン民族、ドイツ国民の各々の優良種性は、他のデモスとは一線を画し余は評価している。だが、翻ってもみよ。かつて歴史では世界史史上初の市民革命とも民衆の自由を謳い美化されたフランス革命を。ロベスピエールの恐怖政治に始まり、王族や貴族の処刑にただ民衆は留飲を下げて、結局はナポレオンの軍事独裁政権に繋がっただけ。まあ、ナポレオンの功績は認める部分はあるが、所詮はデモスが起こした階級闘争の類い。その革命の末路は失敗に帰結するのは自明の理だった。デモスは革命を起こす側の人種ではない。あくまで支配される側の奴隷だ、家畜だ。その点では近現代史における初のファッショによる国家を作ったムッソリーニは評価できるが、あまりにも脇が甘すぎて人心掌握術にも長けていなかった。だからこそあくまで民意の希望という形で政権を築いたヒトラーは偉大なのである。いや、敢えて敬愛の念を込めて言わせてもらおう、アドルフと。何故ならアドルフの演説をオカズに余はヌけるのだからな、そんなの当り前田のクラッカー! 嗚呼、愛しのアドルフ、余は其方の高みに行きたくて愚かなるデモスに天誅を下すのでござる。仮に余の行為が、そう、またしても眼に浮かぶ三島由紀夫の渇いた民衆へ一縷の望みをかけた、卓越した理想論の失敗の如く終わっても良い。ただ余が無辜の犠牲になっても構わない。もはや余はイエスと同様の自己献身の極みになっているのでおじゃる! だからこそ片手に出刃包丁を持ち、デモスに対してこれから無差別殺人を起こして知らしめるのだっ! デモスは真たる天才にその身全てを委ねよ、と。愚鈍、愚昧、愚者のデモスこそ目覚めよ、と! 敢えてドン・キホーテとなりて、不毛な博識ある騎士を装い、不遇の社会に一矢報いるのだっ!』  男はそう言うとテープ・レコーダーのスイッチを素早く切り、出刃包丁片手に部屋から飛び出した。だが、疾走してドアを出た途端、間髪入れず車道を横切ろうとしたとき、男は車にはねられた。 『ひでぶっ!』 はねた車は目撃者がいない事をいい事に、そのままひき逃げして去って行った。出刃包丁は折れ、男は全身骨折して、血まみれ状態になり間もなく轢死寸前。そして、薄れゆく意識の中で、去って行く車の後部を見つめていた。 『……あの車はフォルクスワーゲンではないか。ドイツの、あのアドルフが治めたドイツで生産された車。そして、フォルクスワーゲンとはドイツ語で『国民車』という意味……ふ、皮肉なものだな。一部の天才による独裁を請う者が、名もなきドライバーの大衆車により、この身が犠牲になるとは……やはりデモスこそが、世の圧倒的多数のデモスこそに正解はあるのか? い、い、いや……余は認めんぞ。民主主義は大衆主義に過ぎず、デモスを束ねるのはエリートである余であって、格差社会の発展こそが本来の正常な国家の形態であり、ハイエク流の弱肉強食的な新自由主義経済こそデモスと有能な人間を選別する手段であり……』  と、男の説明口調かつ、やたらと饒舌な断末魔の途中、さらに車が向かってきて男に気づかず、男は再度ひかれた。 『あべしっ!』 男はその車に踏みつけられるようにひかれ内臓破裂。口から血反吐を噴出して身動き一つしなくなった。しかし、最後の力を振り絞って、自分をひいた車を確認すると、その車がベンツだと分かった。すると何故か男は微笑し、そのまま目を閉じ、静かに息を引き取った。                         了
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