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うわの空のあたしは今日もシーラカンスだ。
ディレクターさんの声にはっとして、慌てて視線をマイクに戻す。気づけば本番5秒前。深呼吸をしてから原稿に向かい、カフを一気に上げる。
「12月20日、22時のFM846。この時間からは私、DJ shiraがお届けする『RUN FOR MUSIC』。今週もリスナーの皆さまから届く『走り出す』エピソードとともに楽しい月曜日の夜を過ごして参りましょう」
あぶないところだった。ぼんやりと天井なんて眺めている場合じゃない。いまは仕事中なんた。
「あと5日でクリスマス! そして今日はね、なんとシーラカンスの日なんですって。あたしね、学生のころにシーラカンスみたいって言われたことがあって……」
打ち合わせ通りの言葉をならべる薄っぺらいあたしの声。自分でしゃべっているくせに、まるで離れたところから誰か別のひとの声を聞いているような気分になる。
「へへ、ぼーっとしているからかな。なんだか親近感が湧いてきます。さて、ではまず今日はそんなあたしの楽曲から。shiraで『愛のことば』」
カフを下げると同時に流れる落ち着いたピアノの旋律。シャラリと響くツリーチャイムはまるで深い海の底まで降り注ぐ星屑のよう。しばらくすると聴こえてくる自分の歌声は……やっぱり、ひどい。
淡々と歌うその声はまさに無味乾燥。まるで気持ちがこもっていない。誰かがあたしのために一生懸命作ってくれた曲なのに。情けなさと悔しさで、胸が詰まる。
知らないひとの書いた曲。それがどうにもまともに歌えない。一体、あたしは何様なんだろう。きっとそんなあたしに、本来はもうボーカルとしての価値なんてない。
ここに、彼がいてくれたら──。
黄色い潜水艦であたしを見つけてくれたひと。いまごろ、どこでなにをしているのやら。
そしてあたしこそ、一体こんなところでなにをしているのだろう。いまだに走り出せずにいるくせに「RUN FOR MUSIC」だなんて皮肉なものだ。
あたしの気持ちは、あの頃から止まったまま。
再びスタジオの天井を見上げる。真っ白い天井には等間隔に並ぶ蛍光灯。平べったい空調からは四方向に風が流れる。吊り下げられたマイクをつたってだらしなくぶら下がる配線。なんの面白みもない天井。まるであたしの心の中のように無機質だ。
窓の奥にはディレクターさんたちの真剣な顔。ガラス越しに見られているとふと水族館の水槽のなかにいるような気分になる。あるいはあたしは本当に水槽で飼われる魚なのかもしれない。ずっと深海でのんびりと暮らしていたのに、陸上に連れてこられて好奇の視線を浴びせられる哀れなシーラカンス。
いまも心のどこかでずっと、あのひとが迎えにきてくれるのを待っている。黄色い潜水艦でやってきて、深い海の底まで。水槽に入れられたひとりぼっちの古代魚を。
きっといつの日かまた迎えにきてくれる日を──。
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