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なんで涙が出ないんだろう。涙の一つでもこぼしたら可愛げのある女になれるはずなのに。
「ペコちゃん、グラス空じゃん。飲みなよ。女将さん! 生2つねー」
空になった私のジョッキを高々と掲げ、「えいちゃん」と名乗った男は私の希望も聞かずに生ビール大を注文した。
「それにしてもさあ。ほんっと似てるね」
えいちゃんは冷めてきた串カツを頬張りながら言った。
「まあよく言われます」
「それにしても強えー!!! 全く顔色変わんねえ。いいね、いいね。飲みな飲みな。今日はお兄さんがおごっちゃる」
えいちゃんとは今日この串カツ屋で初めて会った。自称お兄さんだが、私より10歳くらいは年上……40くらいか。若いようにも見えるのだが、くたびれたワイシャツとネクタイ、後頭部のアヒルの尻尾のような寝癖がおじさん臭さを醸し出していた。
「それにしてもさあ。あれでしょ。ペコちゃん、年齢確認されるでしょ」
どうやら「それにしても」はえいちゃんの口癖らしい。
「あー……そうですね。今日も入店時に運転免許証確認されましたね」
「だよねー! どう見ても高校生だもん」
えいちゃんは串カツの串をプラプラさせながら楽しそうだ。私は返事をせずにビールジョッキを煽った。一気に半分を流し込む。おおーと隣からえいちゃんの感嘆の声が聞こえた。
ええ。そうでしょうとも。もう何回このやりとりをあちこちでやったことか。
あいつもとも最初、こんなやりとりをしたな。
プハーッと息を吐いて、右手の甲で唇を拭った。
「それにしてもいい飲みっぷりだあ。俺も飲んじゃうぞー」
そう言ってえいちゃんは美味しそうに何杯目かわからないジョッキを傾けた。それにしてもとにかく美味しそうに飲む。心の中でつぶやいてハッとした。いつの間にかえいちゃんの口癖が移っている。私はジョッキの陰で苦笑いして、3杯目のビールをあおった。
「それにしてもさあ。ペコちゃん、この店初めてだよね。リーズナブルでいい店だと思うけど、ちょっとさ、入りにくくなかった?」
えいちゃんが上唇の上に泡で髭をつけたまま聞いてきた。
「初めてですね。まあ、飲めればどこでも良かったんで、パッと目に入った所に入っただけなんですけど」
「ふーん……なんかヤな事でもあったの?」
随分前にテレビで見た記憶が……確かバブル時代のCMだったと思うが、5時から男というCMがあった。仕事はそこそこ。本番は仕事が終わってからみたいな……えいちゃんにはそんな感じの軽いノリがあった。が、第一印象と違って鋭い言葉が飛んできた。この店に入ってからここまで、そんな含みがあるような行動をしただろうか。頭の片隅で行動を振り返りつつも一方で「ま、いっか」という自分がいた。ま、いっか。どうせ知らない人だし。もう二度と会わない人達だし。ここでぶちまけて憂さを晴らしてしまおうと。
「ありました」
ジョッキを勢いよくカウンターに置いた。
「婚約者に振られました」
「えっ?!」
驚いたのはえいちゃんだけではなかった。カウンターの中にいた顰めっ面の大将。私の右隣で静かに日本酒を飲んでいた人の良さそうなご隠居さん風のおじいちゃん。えいちゃんの左隣の元ヤン風のお兄ちゃん。後ろのテーブルからも声が聞こえた。
「だってさあ。こんな可愛いお嬢さんがだよ? ウチに入ってくるからおかしいと思ったんだよ」
大将が腕組みをして唸る。
「ちょっと何かい? ウチは女が入るには恥ずかしい店だって事かい?」
この空間で私以外の唯一の女性。三角巾姿が凛々しい女将が大将に噛み付く。
「ま、わかるけど」
「なんだよ。認めてるんじゃねーか。野郎どもしか来ねえ店だってよ」
「私はそのつもりはなかったんだよ!」
カウンターの中で大将と女将のいい争いが始まった横で、えいちゃんがおいおいと大泣きし始めた。鼻の下にもう消えかかっているビールの泡をつけたまま。
「そ、そんな……ペコちゃん。その彼氏もよ、そりゃないだろお?」
えいちゃんの泣き声に2人はハッと本題を思い出したようで、身を乗り出してきた。
「婚約までしておいて、こんな可愛い子を振るたあ、どんな唐変木だい?!」
「おいおい。包丁は物騒だろ」
「ペコちゃん? 好きなもの頼みなさいよ」
ご隠居さんが涙をおしぼりで拭いながらメニューを差し出した。
「おねーさん。飲もう! 俺、愚痴でもなんでも聞くっす」
元ヤン風のお兄ちゃんが、えいちゃん越しにビールジョッキを差し出してきた。私は会釈してカツンとジョッキを合わせる。
「そんな男の事は忘れちゃいな。どうせ甲斐性なしだよ」
「見る目ねえやつだね」
「何様だってんだ」
「きっと女心が分からないつまんない奴ですよ」
いつの間にか常連客が私を取り囲み、そんな事を言い始めた。
そうだな。高校時代から付き合って10年。結婚を前提に同棲を始めて2年。それと同時に会社の後輩と付き合い始めて、ズルズルと関係を続けて、ついにあっちに子供ができて婚約解消とか。クズ以外の何者でもない。
でも、本当に彼だけが悪かったのかな。
お前に少しでもアイツの可愛げがあったら……。
常連客の罵詈雑言を聞きながら別れ際の彼の言葉を思い出した。
長い付き合いでわかってるつもりに胡座をかいていたのは私なんじゃ。いつの間にかスッピンでも部屋着のくたびれたスゥエット姿を見られても気にならなくなっていたし。デートっていつしたっけ。会社帰りに合流して居酒屋。これはデートというより夕飯を作るのを回避しただけ。食べて飲んで帰ってお風呂に入っておやすみ。彼にトキメキを感じたのっていつ? っていうか、彼は私に何かトキメキを感じてくれていただろうか。カノジョの立場からいつの間にか口うるさい母親のようになっていた。どんなに忙しい時でも文句を言わず一緒に家事をしてくれた彼にありがとうの一言でもかけていたか。会社の愚痴を彼から聞いた事はない。相談のていで愚痴を散らかしていたのは私の方じゃないか。気分転換の散歩に誘ってくれたのに、休みは休ませてとか……自分1人が大変で疲れているような態度をとっていたのは私ではないのか。
そんな女と一生連れ添いたい男がいるだろうか。
「ペコちゃん……」
えいちゃんが鼻水をすすりながら差し出したのはおしぼりだった。
「え」
「ペコちゃんって言ったっけ。そうさね。あんたの言う通り、あんたにも反省すべき点はあるんだろうね。婚約者がいての二股で相手に子供ができたなんて褒められたもんじゃない。まあ、ここで居合わせた縁だ。今日は愚痴でもなんでも聞いてあげるから、スッパリ切り替えな」
どうやらいつの間にか声に出していたようだ。女将さんが私の前に小鉢を置いた。小鉢は金平牛蒡だった。
私は箸を取り、金平牛蒡を口に運んだ。ざっくりと大きめのささがき。店のフランクな雰囲気からは想像できないあっさり味。白胡麻が風味を添えている。ぽたりと、カウンターに水滴が落ちた。
「……美味しい……おいしいですぅ。ううう……うええええ」
どこにスタンバイしていたのか。後から後から涙が溢れてきた。温かい涙が頬を伝って落ちてゆく。
強がって、じゃあねなんて言ったけど、本当は悔しかった。別れるの言葉が納得できなかった。彼が安心を求める存在が私でなくなったことが寂しかった。そして彼を一番理解しているつもりになっていた自分が悲しかった。
えいちゃんや女将さん、常連客が私のジョッキにカチンとグラスを合わせ、それぞれの世界に戻っていく。
次のためにちゃんと終わらせる時間をくれた事に感謝しながらカウンターで泣き続けた。
了
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