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1.雪
寒い朝だった。恋人の千絵と一緒に大学行きのバスを待っていると、彼女は不意に視線を空に向けこう言った。雪、と。
「雪? そんなん降ってないぞ。千絵の地元と違って東京はなかなか雪降らないからな」
そう言って笑う俺の頬に何か冷たいものが触れる。ね、雪でしょと千絵は笑った。彼女はすっと右手を持ち上げて雪を受け止めると、ぴくりと肩を震わせる。
「ねぇ浩司君、雪鬼って知ってる?」
彼女は掌で溶けた雪だったものを見つめながら小さく呟いた。
「雪鬼? ああ、吹雪の夜に現れて村人を喰っちまうっていう東北のやつか?」
俺がそう答えると、千絵は「さっすがぁ!」と両手を打ち合わせ嬉しそうに笑う。俺と彼女は当時大学三年生、共に民俗学を専攻していた。
「それがどうかしたのか? 寒いのは嫌いだから卒論のテーマは暖かい地方をテーマにするなんて言ってたのに東北地方に鞍替えか?」
揶揄うにそう言うと彼女はいつも見せないような物憂げな表情を浮かべ「雪はもう懲り懲りよ」と言って首を横に振る。何となくどう返していいのかわからず黙ったままでいるとバスがやってきた。
「あ、バス来たよ!」
何事もなかったかのようにバスに乗り込む彼女に俺も続く。その日彼女が雪鬼の話題を出すことはもうなかった。
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