第一章 キャスミーローク  一話:黒髪のショートヘア

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第一章 キャスミーローク  一話:黒髪のショートヘア

 ふと、目が覚める。  ゆっくりと目を開け、寝返りを打とうとした瞬間、体が動かないことに気づく。 (ん!?)  首が動かない。  手も動かない。足も……、何もかも……。 (ああ、金縛りだな……)  寝相のせいで、血流が悪くなって動けない時もある。勘違いということもある。 『もしかして』という僅かばかりの可能性にかけ全力を投じてみるが、やはりピクリとも動かなかった。 (まあ仕方ない)  いつものことである。そんなに頻繁ではないけれど、それでももう手慣れたものだ。  金縛りを解くのは簡単である。なかったことにして、もう一度目を(つむ)り、寝てしまえばいいのである。バカバカしいと思うかもしれないが、実際にこれでやり過ごすことに幾度となく成功しているのだ。  必要以上に恐怖を感じ、ジタバタすればするほど、ドツボにはまるのだ。基本的にはレム睡眠によるものであり、何かに襲われるなんてことはないのだ。そういうわけで、今回も狸寝入りの敢行である。  が、なにか、足元に違和感がある。  ゾクッ、ゾクッ! ゾゾゾゾゾッ!!  足元の違和感が、冷たい何かが頭の方にのぼってくる。  実際にはほんの数秒だったのかもしれない。だがそれはゆっくりと、とても長い時間をかけて、じわりじわりと頭に近づいてくる。 (寒っ! 寒い、寒いっ!!)  ここはベッドの、暖かい布団の中のはずだ。  僕の体温でしっかりと温まった布団の中だ。  それなのに、なんだ! この凍るような冷気は! (なんだ、なんだ、なんだ! おかしいぞ!)  金縛りで、もちろん体は動かない。それでも、とてつもない危険を察知し、体は反射的にこわばる。凍るような冷気は、じわりじわりと、まだのぼり続けている。いつもの金縛りだなんて余裕は、もはや微塵もなくなっていた。 (なんとか、なんとか、なんとか!)  エラそうに、まるでそれが手段の一つかのように、やり過ごせばいい、などと思っていたが、実際には、それしかできなかった。なんとか、やり過ごしたかった!  しかし次の瞬間、  身を守る僅かばかりの可能性を持った掛け布団は、あっけなく吹き飛んでいき、うつぶせの姿勢にあった体は急反転、仰向けにされる。 (ヤバい!)  (あらわ)にされた体の上からはずっしりと重圧がかかり、呼吸が苦しい。しかもその重圧は、決して、ただ重いだけではなく、おぞましいほどの悪意を感じた。手足はもちろん指先ほども動かせない。そして、何かが、何かが体の上に乗っている!  はっきりと“恐怖”を自覚した。  どうにもできない中での唯一の抵抗は、目を閉じ続けていることだった。そう意識をした途端、体を押さえつけていた、おぞましい悪意の塊が、頭の方に近づいてくる。おぞましき悪意の塊は、顎を撫で、耳元をまさぐり、顔を包み込んできた。  決して目を開けまいと、ギュッと力を入れ、  恐怖の中で呼吸を止める。 (このまま……、このまま……)  ただただ、やり過ごすことしかできないのだ。  こちらの意図に気づいたのか、おぞましき悪意の塊が攻撃を仕掛けてきた。  ―― そうか。ならば、お前の中に入ってやろう ――  声が聞こえてきたのではない。直接語り掛けてきたのか、ただそう感じた。  そして、口をこじ開けようとしてきた! (待て、待て待て待て!!)  思わず目を開けてしまった。  そして僕の上に乗っている、そいつを見てしまった。  よくは覚えていない。たぶんである。  血を流した、濡れた髪は長く、青白い顔。  口は裂けていただろうか?  目は腫れていただろうか?  よくは思い出せないのだけれど、きっとそんな感じだっただろう。  目が合った瞬間は確かに恐怖を感じたのだが、その容姿に恐怖をしたのではなかった。  身の毛がよだつ憎悪の塊  それは、僕を恐怖のどん底に突き落とした。  そしてこの憎悪の塊が今まさに、口から入ってこようとしているのだ! (絶対入ってくんなコノヤロー!!)  再び目をギュッと閉じ、口を真一文字にして、侵入を防ぐ!!  そして咄嗟(とっさ)に、無自覚に、唯一知る般若心経を唱える。  カンジーザイボーサーギョウジン  ハンニャーハーラーミーター  とにかくもう必死だった。  唱え始めて中程まで来たとき、憎悪の塊が少し緩まった。  指先を、コンマ数ミリ、動かせた気がした。 (いいぞ!)  そう思いながらも、落ち着いて唱え続ける。  後半に差し掛かると金縛りも解け、解放されたことがわかった。 (まだだ!)  油断禁物、最後まで。  ギャーテーギャーテーハラギャーテー  ハラソウギャーテーボージーソワカ  ハンニャーシンギョーーーー  シンとした、白い世界。  気配はない。  手も動かせそうだ。足も動かせそうだ。  徐々に世界に色付きはじめるのを、感覚的にそう感じた。  窓があるであろう方向から、外の音が漏れ聞こえる。  たぶん。  たぶん、大丈夫だ。  ゆっくりと、おそるおそる目を開ける。  大きく息を吸った。  今度は、ゆっくりと息を吐いた。  ひとまず、ひとまず。  無事だった。  仰向けに寝たまま体は動かさず、目だけで辺りを見回した。怪しい気配は(つゆ)ほども感じられない。恐らくは、清々しい朝なのだろう。外からは雀の声が聞こえた。それでも、体はぐったりと疲れ切っていた。激闘の後なのだ。  ゆっくりと体を起こし、仰向けでは見えていなかった部屋の隅々を見渡す。  安全を確認すると、もう一度大きく息をついた。 (なんとか……耐えた……)  自分でもあきれるほど、ため息交じりの深呼吸を何度も繰り返した。 (なんだよあれ。マジかよ。)  何かはわからないけど、とにかくすごい憎悪だった。あんな憎悪の塊に触れたのは初めてである。だからこそ、感じた恐怖は異質なものだった。ホラー映画を観たときのそれとはまるで違う。別格だった。  もう一度自分の身を確認した。  手は動く。足も動く。痛いところもない。  が、改めて気づく。  心臓が、まだバクバクしていた。すごい汗だ。  相当な恐怖を感じていたことを、  もうすっかり落ち着いたと錯覚している中で自覚した。  まあとにかく。  今日は身の回りに気を付けよう。      ※     ※     ※  僕の名は、継宮史章(つぐみやたかあき)、しがないサラリーマンである。  仕事ぶりは可もなく不可もなく。大きな期待をされているわけでもないが、見放されてもいなかった。しかし、今日は捗らなかった。今朝の出来事が始終、僕の思考を独占していた。決して熟考できるわけではないのだけれど、気づけば今朝のこと追考しているのだ。 (何か良からぬことが起こるのでは?)  そう警戒し、重要そうな仕事はすべて後日にずらした。  他人との接触も極力避けた。自分のことも気になるが、期せずして他人を巻き込んでしまう可能性も考慮してのことだった。  いつもとは違う様子に気づいた同僚もいて、 「元気ないな、大丈夫か?」「久しぶりに飲みにでも行くか?」  などと声をかけてくれていた。ありがたいことだが、今朝の出来事を誰かに話すことはなかった。まあ話したところで、適切な対応ができる人がいることもなかろう。滞りなく日常をやり過ごし、夕刻になり帰路についていた。  今朝の現場である家には、本当は帰りたくはないのだけれど、それでも帰るしかないのであれば、早めに帰って準備したい。複雑な心境である。食欲はあまりなかったが、帰りがけに近所のスーパーに寄って、少しばかりの弁当と総菜、そしてあら塩と半紙を買った。 (明朝にでも清め塩を作ろう)  酒は飲まないが、何かに役立つかもと清酒も買った。 (今できる準備はこんなものか)  自宅に着き、恐る恐るドアを開ける。  怪しい気配はない。部屋が乱れた様子もない。少しだけホッとする。それでも、今朝はすっかり動転してしまい、家の中を見渡したはずだけれど、本当に何もなかったのか? 今となっては全く自信がなかった。もう一度、天井まで隈なくチェックする。どうやら何事もないようだ。  ようやく安堵できた。  テレビをつけ、腹が減っては戦はできぬと、買ってきた弁当総菜を食べる。しかし食欲があったわけではないので、無理矢理押し込むように、流し込むように食べた。食べ終わり、煙草に火をつけ、ぼんやりと今朝のことを思い返す。  なんだったんだあれは。恨みたっぷりって感じだったな  女の霊だった  血だらけだったぞ  僕への恨みだろうか  女性のトラブルはないし  女の霊に似たやつも知らない  僕の中に入って来ようとしやがった  なんだよ体の中に入るって  呪う気満々じゃないか  本当に退散させられたんだろうか  般若心経に悪霊退散の効果なんてあるんだろうか  出てくるのは疑問ばかり。専門家でもなければ、初めての出来事で、正しい答えなど見つかるはずもない。まるで煙草の煙のように、立ち上っては消え、を繰り返す。結局は、しばらく様子を見るほかない、という結論にたどり着くだけだった。そして次第に、あの強烈な憎悪の塊だけを深く考え始めていた。  僕が生きてきた中で、向けられたことのないような憎悪、その塊。圧倒的な恐怖、身の毛もよだつ戦慄。心臓を鷲掴みにされたような圧迫。が、どんな言葉でも足りなかった。まさに死を超える恐怖、死んだほうがマシ、という表現を初めて身をもって知った。  どうすれば、あんな憎しみを持てるんだ  何があれば、あんなにも憎しみを込められるんだ  あんなことや、そんなことや、こんなことや。いろいろ考えるのだけれど、もちろん納得のいく答えなど出ることはない。堂々巡りだ。床に就くまで、そして床に就いてからも、考えあぐねていた。 (もういいか。明日もあるし、とにかく寝よう……。ん?)  すっかり忘れていた。  今夜も金縛りにあうんじゃないか、ということ。  いや、金縛りじゃないな  あの憎悪の塊にまた襲われるんじゃ……。  とりあえず、電気つけっぱなしだ……。       ※     ※     ※  目が覚めた。  金縛りがくるんじゃないかと身構えたが、体は動きそうだ。  少し安堵した時、  ―― 視線 ――  首筋に悪寒が走る。  目を閉じて、呼吸を止めて、冷静になる。 (大丈夫。金縛りには、なっていない)  意を決して、視線の先に目をやった。 (だれ?)  覚悟を決めて目をやったその先に、女性の姿があった。十六から七歳くらいだろうか。黒髪のショートヘアで、目は丸く、鼻筋は高い……。残念ながら、他に特徴は見当たらなかった……。美形ではなく、どちらかというと、素朴な、もっさりした子、というべきだろう。  じっとこちらを見ている。何の表情もなく、  ただただじっと、こちらを見ている。 (だれ?) (なに?)  と考えたちょうどその時、  消えた。  忽然と姿が消えたのである。  そして、目が覚めた。  今度こそ本当に。  これが、少女との出逢いだった。
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