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月明かりを繋いで
もういい加減忘れたら、と十年来の友人は私に憐れむような視線を向けた。
いつからだったろうか、密やかな逢瀬を重ねても、気付けば私に触れるたび彼が苦しそうに息を詰めるようになったのは。よく知った音で私の名前を呼ぶその声に、甘やかな感情を押し殺すような諦めの色が滲み始めたのは。
「⋯⋯無理だよ」
ひとり呟いた声は、冷え切った室内の空気をか弱く震わせた。
彼は、ふわふわとどこか現実味がなく他人事だった私の味気ない人生を、この胸の内で鮮やかに色付けてくれた人だった。
どうか貴方の背中を僕に預けてはくれませんか、と私の手を取った彼の穏やかな表情を、私は今でも鮮明に覚えている。
あの頃はふたりとも、まだ世界を知らない小さな子供だった。世界は素晴らしくて尊いものだけでできている、だなんて夢みたいなことを、本当だと信じて疑わなかった。
かつて愛した、うつくしい御伽噺のまま。
そうして小さな約束を忘れられないまま大きくなってしまった子供たちは、お互いの手を離すことができないままやがて交わることのない別々の道を用意されてしまったのだ。
「あの有名な伯爵令嬢との婚約が決まったそうじゃない。もう無理だわ。相手が強すぎるし、評判も身分差も文句なしに完璧だもの」
友人はそう言って眉尻を下げた。
それに私だってもう年頃だから、『そろそろ家のことを』だとか『良い相手を』だとか周囲には色々言われている。
これが"どうしようもないこと"なのだと、痛いくらいに理解している。
彼との距離がどんどん離れていくことにも、"これ"がやがて我が身を滅ぼしかねない感情であることにも、ちゃんと気付いているのだ。
けれどそれでも、積み重ねた想いがこの身体を縛り付けて、どうしようもなくて。
いつだか、どうか幸せになって、と頼りなく揺れる声音で彼が私へ囁いた。
──『僕のことは⋯⋯あの幸福な日々のことは、取るに足らない儚く小さな夢の中の出来事だと思ってどうか』、と。
ふたりでよく眺めた朝日も、今では鍵を掛けて閉じ込めたいくらいに恐ろしいのだ。
彼の涙など見たくはないのに、この想いもなにひとつ零すことなく開かない箱へ押し込んでしまわねばならないのに、それでも私の方がみっともなく泣いてしまいそうで。
けれど、そのあたたかな手を離すことはどうしたってできなくて。
「こんな恋でも⋯⋯、捨てられないよ」
これ以上は、苦しいだけだ。分かっている。
──……愛の言葉さえ、もう私たちには相応しくないのだろう。
けれどそれでも、彼がいない幼かったあの日々をどう生きてきたのだったか、私にはもう思い出せないのだ。
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