失くしもの

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失くしもの

 あの日からずっと、私は"何か"を探し続けている。 「──……、」  それは、大切なものだった筈なのだ。  いつでもすぐ近くにあって、何よりも暖かく愛おしくて、手放すことなど例え嘘でも考えられない程にかけがえのないものだった。 「今日も、見つかりませんか」  困ったように笑みながら、ハウスキーパーがキッチンから顔を出す。  実は私は、数日前まで家を長らく空けていたのだ。その具体的な期間までは予想していなかったし、細かく数えてもこなかったけれど。  しかしそれでも人の手が入らず荒れ放題になるのに充分な期間であることだけは分かりきっていたから、何を失ってもせめて帰る家だけはそのままであるように、とハウスキーパーを雇ったのだ。  そしてその理由から言えば、現在その目的は果たされた筈だった。だって私はもう長旅から家へ帰ってきた訳だし、ならば『ありがとうございました』と賃金を支払ってお帰り願ったとして何もおかしいことはない。  しかし情けないことながら、よく気が利き穏やかで居心地もいいハウスキーパーとの生活を、私はもうすっかり手放せなくなってしまっていたのだ。 「ああ──すまない、仕事の邪魔をしてしまったかな」  思い返せば、本当に長い道程だった。  無事に帰れないかもしれないという思いが何度も頭をよぎり、けれど良い知らせを待つ人がいるからと何度も自らを奮い立たせた。傍らには意志を同じくした仲間がおり、互いに励まし合いながら何としても足だけは止めないよう踏ん張っていたのだ。  やがて旅の全てが終わり、仲間たちもそれぞれ少しずつ自らの生活へと戻っていった。あの波乱に満ちた旅路が夢の中の出来事であったかのように、別れ際彼らは穏やかな表情をしていた。──ああほら、ここは鮮明に覚えている。それで私も、同じようにこの懐かしい我が家へ、掴み取った平和な日常とともに帰ってきた。  ……筈だったのに、気が付けば大切な"何か"をなくしてしまっていたのだ。  それが何だったかは、まるで記憶そのものを道端にでも落としてきてしまったかのように全く思い出せない。それこそ、影ひとつ、欠片ひとつさえも。  そんなモノになおも縋るなんて、みっともないことだと分かっている。  けれどそれでも、消えてくれない喪失感と日に日に増していく焦燥感が、この胸を駆り立てて仕方ないのだ。何かを忘れている、それはおまえにとって大切なものだ、それを手放すことはあってはいけないのだと。 「……いいえ、お気になさらず。それより旦那様こそお疲れでしょう。お茶を淹れます、少し休憩なさっては」  そうしてふんわりと微笑みながら、椅子を勧められる。 「あぁ、そうだね。ではそうしようか」  気遣いに素直に甘えることにして、私はゆっくりとそこへ腰を下ろした。  そのままぼうっと待っていれば、やがてよく知った紅茶の香りが漂ってくる。実は紅茶が少し苦手だったのだけれど、この人が淹れてくれたものだけは何故か美味しく飲めるのだ。  私にはそれがひどく不思議で、以前冗談半分に『魔法でもかけたのか』と聞いたことがあった。その時は確か、『ええ、少し』と笑われてしまったのだったか。 「旦那様、パウンドケーキはお好きですか」  キッチンからそんな声が飛んできたので、私はすかさず『大好きだ』と返した。  ふむ、どうやら紅茶と一緒に出してくれるつもりらしい。気付かれないようにこっそり視線をやってみると、型から出されたばかりであろう温かそうなパウンドケーキが、さっくりさっくりと薄く切り分けられていくのが見える。  こうしてゆっくりしていると、まだ人生の半分も生きてはいない若輩者の私が、思い出せない『何か』に駆り立てられて行き急ぐのはあまりに滑稽だ……と、そんなことを思えてくるから不思議だ。決して全てを忘れられるわけではないが、ほっとひと息つこうという気持ちになれる。旅から帰ってきたからとすぐさまハウスキーパーを帰し私一人きりの生活に戻っていれば、こうはいかなかっただろう。 「思うんだが……私はどうも、見当違いの場所ばかり探しているようだ」  ずっと考えていたことを口に出してみると、紅茶を持ってきていたハウスキーパーが目を丸くして驚いた様子を見せた。 「これまでは家の中や庭ばかり探していたが、考えてみれば旅の途中でなくしてきた可能性の方が圧倒的に高いじゃないか。だって私は、この家に足を踏み入れたその瞬間、違和感に気付いたのだからな。……まあ、ひとつ所に留まるような旅ではなかったから、探すとなると難しい話になってしまうけど」  自分で言って、思わず笑ってしまった。"探すのは難しい"などと口では言いながら、既に頭の中ではじき探しに出るつもりでいることに気付いたからだ。 「諦めることは、考えないのですか」  静かに問いかけられて、私はふむと唸った。 「そんなことは今まで考えもしなかったな。確かにこれは、他から見ればひどく不毛な行いに映るだろう。……しかしなくしたと分かったあの日から、自分の半身を失いでもしたみたいに胸が痛むんだ。探さずにはいられないだろう」  ありがたいことに、今の私には自由に使える時間が沢山ある。  それならば、探さない理由などない。簡単に見つからないのも、それまでの人生で味わってきた様々な困難から比べれば愉快なものだ。これは大切なものを見つけるための宝探しゲームだと、そう思えば結構悪くない。 「……今でもまだ、愛しているんですね」  ハウスキーパーが不思議なことを言うものだから、私はつい笑ってしまった。 「あぁ、そうとも。詳しい記憶がなにもないとはいえ、これだけ忘れ難く心動かされるものを、私が愛していない筈がない!」  さて、そうしてまた、終わったと思われた長い旅が新しい姿で戻ってくるのだ。  折角だから、このハウスキーパーにも家にひとりで留守番などさせず一緒についてきてもらうことにしよう。身の回りの細々としたあれそれに若干疎い私だから、しっかり者が共にいればきっと大いに助けとなってくれると思う。  そうして、穏やかな温もりと尽きることのない愛しさだけ残して私の中から消えた"それ"を、私は一生探し続けるのだろう。  この胸を焦がす得体の知れない熱に、突き動かされるまま。 ◇◆◇◆  勇者は、とても明朗で愛情深い人間だった。  数年前、この国に重い影を落とす『魔王』が現れた時、国王は勇者を目の前へ呼んで直々にその討伐を命じた。腕が立ち唯一『魔王』に対抗できる属性の魔法も有していたことから、勇者は一も二もなくその話を引き受けたのだ。  とても長い旅になるだろう、無事に戻れるかも分からないとそのひとは言った。  けれどきっと君のもとへ帰ってくるから、それまでこの家を頼む、──……世界中の何よりも愛おしいひと、どうか私を忘れないでいてと。  その言葉を信じて、交わした再会の約束だけを頼りに長い時間を待って過ごした。  どれだけかかってもいい、死ぬまでにただ一度でいいからまた愛するあのひとの顔が見たい、と毎夜願った。いつまで経っても慣れることができない独りきりの室内で、ただ恋しいひとの無事だけを願っていた。  なのにそのひとは、帰ってきてまず驚いた表情をこちらへ向けたのだ。  それから何か言いたげに薄く口を開き、けれど次の瞬間には何かを思い出したように、携えた鞄の中をごそごそと探り始めて。ひどく混乱して何も言えないこちらのことなど見えていないみたいに、帰還した勇者はやがて鞄の中から見つけ出したひとつの封筒を手早くこちらへ差し出してきた。  胸中を渦巻く色々な感情を懸命に抑えつつ、震える手でそれを受け取る。  それは、勇者と共に旅をしたという年若い剣士からのものだった。 ────────────  あなたのことは、魔王と戦いになる前に勇者から聞きました。  長い旅を終え僕たちがそれぞれの生活に戻ることになった時、ふと思い出して心配になったのでお手紙を書かせていただきます。  恐らく今突然のことに驚かれているかと思いますが、どうか落ち着いて聞いてください。  ご存知の通り、確かに僕たちは魔王の目論見を阻止することに成功しました。魔王ももう、野望を叶えるために大きな力を振るうことは叶いません。しかしあの男は、最後に勇者へとある大きな呪いをかけました。  それは、『自分にとって一番大切なものを一生思い出せなくなる』呪いです。  勇者には、"家に帰ると待っている人がいるだろうからこの手紙を渡すように"とだけ伝えてあります。帰路にて彼と色々な話をし、その様子を見て判断しましたが、恐らくは貴方が家にいるのを見れば勇者は驚くでしょう。  どうか、傷付かないでください。  その人は最後まで、貴方のことを想っていました。  どうか、勇者を嫌わないであげてください。 ────────────  気付かれないようにそっと吐いた息は、思ったより感情を含んで震えてしまった。  それでも何とか手紙から顔をあげると、目の前の勇者は不思議そうな表情でこちらを見て口を開いた。 「私の仲間が、それはとても大切なものだから家に帰ってちゃんと渡すまで開けてはいけないと言ってな。私も中身は知らないんだ。  ……ところで、貴方は何者で一体なぜ私の家にいるのだったかな。仲間が知っていて私が知らないわけはないと思うんだが、いかんせん旅に出る前の記憶が断片的でね。情けないことに、貴方のことも思い出せないみたいなんだ」  そうして困ったように笑うその表情が見ていられないほどに痛々しくて、気付けばこんなことを言ってしまっていたのだ。 「そうでしたか。失礼致しました、わたくしは旦那様がお出掛けになる前から、この家の管理を任されていた者です。しばらく空けるからその間頼む、とのことでしたので、お言葉に甘えて住み込みで掃除や周辺の整理などさせていただいておりました。」
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