願星の方舟

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願星の方舟

 その国は、もう長いこと太陽が差したままだった。  だから日が落ちて辺りを暗くする『夜』は、人々にとって古い物語の中の出来事でしかなかったのだ。  しかしある時、神の言葉が王へ降ろされ、やがて帷が降りたように辺りは深い闇で満たされた。  人々は原因を突き止めようと必死になったが、神官さえ意図を読みかねたその言葉は、最終的に王や民を殊更不安へ突き動かしただけだった。そして負の感情で満ちた視線はやがて、一人の少女へと向けられたのだ。  この国の王家は、皆が太陽を溶かしたような黄金色の髪と瞳を持つ。王家の象徴とも言えるその色は落ちぬ日を、ひいては終わらぬ王国の栄光を表すものとして大変尊ばれた。童話にも語られる、有名な話だ。  しかしそんな中、ひとり『夜』をうつし取ったような深縹(こきはなだ)の髪と、透き通り輝く白菫色の瞳を持つ姫君が、6〜7年ほど前に王家へ生まれたのだ。  前例がない上に側室の子であったため、人々は『凶兆だ』と口々に噂し彼女を忌み嫌った。そして王家や神殿もそれを否定する根拠を持てなかったため、今代で唯一であるにも関わらず、姫君はその危うい立場を守るのに必死の状態だったのだ。 「こんなことになっては、もうおまえを憎めと言っているようなものじゃないか」  少しくすんだ金色をもつ少年が、姫君の前へ膝をついて唇を噛んだ。 「……にいさま、ここへきては駄目と言ったのに」  少年は、彼女よりも5年早く同じ側室から生まれた、彼女の実の兄だ。  世界が夜闇に覆われてからもう、数ヶ月が経とうとしている。そして原因も解決方法も一向に分からない今、全ての憎しみは姫君へと注がれていた。その上王も、彼女を庇うどころか神官へ調査を命じ、彼女を王宮の奥の隅へと押しやってしまったのだ。そしてそれからは、手薄な使用人に囲まれ、兵に見張られながらひたすらに息を詰める生活。  やがて王妃や腹違いの兄弟、周囲の人間たちもそれに倣うように、彼女を憎み恐れ始めた。  少年はその隙を見計らって、いつもこっそりと彼女へ会いに来るのだ。 「にいさまは、ご自身の努力でやっとお立場を認められ始めているところですのに……」  側室である母は、学問に優れた血筋の出だった。  母自身も例外でなく幼い頃から学問に親しみ、こんなところへ来さえしなければ将来は優秀な学者になっていただろうと言われるくらいだったのだ。しかし引き換えたように体が弱かった母は、姫君を産んでから体を壊し始め、やがて姫君が3歳を迎えたころ静かに息を引き取った。 「母上のお陰だ。私が自身とおまえを守れるようにと、幼い頃からよく教えてくださっていたから」  妹の手を取った指先がみっともなく震えるのを気付かれてしまわないように、ぐっと力を込める。 「おまえは母上と私の宝物。暗い道に差す、一筋の光だ。だから何があっても、おまえだけは守り抜く」  ──……愛しい愛しい、我らの星。  神の言葉も、それを神殿や王家がどう解釈するかも、大して興味はなかった。ただ自らの信念のもと、大切な存在が不当に虐げられるのを見ていられないだけ。  全てを諦めたように兄のことだけを思い微笑むただひとりの妹が、幸せであるよう願いたいだけだ。 「にいさま、わたくしは平気ですから、どうかご自身を大切になさってくださいませ」  困ったような表情の彼女に安心させるよう笑みかけ、少年はすっくと立ち上がった。そうして丸く艶やかなその頭にぽんぽんと手のひらを乗せ、わかっている、心配しないでと上辺ばかりの言葉を口にする。 「にいさま、どうかご無事で」  気付いているのかいないのか、姫君が強く手を握り返し不安げに少年を見上げた。 「あぁ。おまえも、必ず」  姫君は、曖昧に頷くだけだった。 ◇◆◇◆◇◆  扉の向こうからがしゃん、ばたんと大きな音がして、少女は嫌な予感から思わず飛び起きた。  金属と、人と、何か湿ったような生臭い気配。 「……っ嫌よ、そんな、」  絞り出した声が震えてしまうのを、止められない。  虐げられているとはいえ、静かに静かに生活していたのだ。こんなことは今までになかった。  だから嫌でも、今がどういう状況か察してしまう。 「失礼つかまつる」  やがて殺気立った騎士の声がして、少女が返事をする間もなくその扉が開かれる。 「ひ、」  何かの頭髪を引っ掴んで引きずるようにして現れた騎士は、少女の前でどさりとそれを手放した。  ──目に入ったのは、よく知るくすんだ金色。 「……っ嫌、」  息がうまくできない。  視界が霞んで、体の震えが止まらなかった。 「許可した者以外の侵入者は誰であろうが斬り捨てるように、との陛下からの命だったためそのようにしたが、この者についてご存知か」  ご存知か、も何も、目の前の人が一体何者かなんて誰もが分かりきっているだろうに。  少女が何も言えずにいると、騎士は勢いよく剣を振り上げた。その刃先が目の前に横たわる"彼"へ向けられているのに気付いて、さっと血の気が引く。  血と痣にまみれた青白い肌の上で、剣がぬらりと蝋燭の火に揺らめいた。 「では、処分させていただく」  だめ。だめだ、早く手当てをしなければ。  どうせ死ぬ運命なら、と自らの命を捨てる覚悟で横たわったぼろぼろの体へ駆け寄ろうとしたその時、しかし微かな呼吸音が耳を掠めた。  ──……『こな、いで』。  来ないでルシア、と、か弱く唇は動く。  あぁ彼は無事だ、と場違いに胸の内で僅かな安堵の色が差した。しかし駆け寄るのを躊躇った一瞬の隙を、王家の信頼を背負う近衛騎士が見逃すはずはない。 「……ぁ、」  風を切る鋭い音にはっと顔を上げれば、そこにはもう赤い赤い海が広がるばかりだった。 「あ、嫌、……っねぇ、嘘、」  ひゅうひゅうと喉が鳴る。  目の前に立った騎士は、しかし素知らぬ顔をして『後で片付けておけ』と踵を返してしまった。  やがて嵐が去ったように、室内は静寂に満ちる。 「あぁ……なんてこと、にいさま、嘘でしょう? 目を開けてくださいませ、これはきっと悪い夢ですから……お願いです、ねぇ、ノアにいさま……!」  側仕えがはしたなく囁き合うから、知っていた。  にいさまは、せめて哀れな妹のためにと王へこの処遇の改善を求めたのだそうだ。まだ何も根拠はない、夜が悪いものだと……ましてそれが少女のせいだなどと、誰が証明したのかと。 「……、」  おぼつかない足取りでそばへ行き、纏っているいつもより少し丈夫な外出用の衣と懐に隠し持った額の大きいお金から、彼が何を考えていたのか気付く。 「あぁ……ごめんなさい、にいさま、」  彼は今夜、少女を連れここから逃げてくれるつもりだったのだ。  きっと遠くへは行けないし、どこへ向かってもふたりを暖かく迎えてくれる者など居やしないだろう。彼自身が必死で築いた今の地位さえ、少女の手を取った瞬間に無へと帰してしまうのだ。けれどそれでも、少女へ束の間の自由と広い世界を与えるために。  冷え切った両手で、そっと大切な兄の亡骸に触る。 「ねぇにいさま、わたくし、夜とは美しいものだと思うのです。昔神話の絵巻で見ましたでしょう、あれはとても美しい沢山の光の粒でしたわ」  止める力もない落涙が、次々に痛々しい青痣だらけの頰や額を濡らした。そうして白菫色の瞳より零れ落ちた慈雨が触れるそばから、少年の体は光の欠片となって夜闇へ散らばっていく。 「太陽は少し、巡る場所を間違えてしまったのね。……だからここはしばらく、眠らなければ」  一度二度瞬いて睫毛の下から姿を表した瞳は、金とも銀とも言えない輝かしい光を放っていた。 『太陽を捕らえ続けた哀れな咎を、夜を抱く神の愛し子が永き眠りとともに癒すであろう。世界が闇に満ち、遠い先で再び生命を与えられるその時まで。』  ──そういうことだったの、とやけに冷静な頭で納得してから、少女は寂しく笑った。  王も民も、誰ひとり間違ってなどいなかった。少女は初めから、言葉通りこの世界に『夜』をもたらすため生まれてきた存在だったのだ。  止まることなく流れ続ける涙は、深い夜色を飾るように少しずつ美しい星々へと姿を変えていく。 「ほら……綺麗な夜空ね」  誰にともなく呟いて、少女はゆっくりと両手を天へ伸ばした。 「次に奇跡が芽吹くまで、ゆっくりお眠り」  これから訪れるのは、静かな静かな長い夜だ。草木や動物、人々も神の降らせた安息へ身を沈める。  先程まで薄暗く埃っぽかったこの部屋も、今は嘘のように光を帯び輝いていた。出て行った騎士や使用人、そしてこの土地に住む人々がどうなったのかは分からない。興味もなかった。ただ、主が世界に永い夜と静かな安息をもたらせと言い、少女はそれに従ったのだから、きっと何もかも眠りにつくんだろう。  全身にのしかかる疲労感に身を任せ、少女は愛しい兄の温もりに寄り添うようにそっと体を横たえた。  痛いのに沢山頑張った。もう、充分だ。 「おやすみなさい、ノアにいさま」  触れたくとも届かない場所で、星々は眠る大地をよそに瞬き続けるのだろう。  深い夜色の空ごと、夢の中へ閉じ込めるように。 「愛しい愛しい、わたくしの月……」  ──流れ落ちた涙が、光を帯びて(ほど)けるように。
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