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「子どもができた、かもしれない」
とてもめでたいはずなのに、凌の声はとても暗く沈んでいた。季節はあっという間に秋を終え冬に差し掛かる。まもなく11月も半ばが過ぎ、つい先日誕生日を社内で祝わってもらい、照れ臭そうに笑っていた彼は今何かを振り切るように酒を煽っている。
「かも、しれないとは?」
「……今アメリカで、あっちで雇っている調査団の報告さ。まだ詳しい結果はわかっていないがほぼ確実だろうって。ただ、俺の子じゃない可能性が非常に高い」
身に覚えのない時期の妊娠。ただし、現時点で彼女が今妊娠何ヶ月かがわからないため確実ではないと言った。
彼は不倫が発覚した後、着々と離婚に向けて動き始めていた。
だが、当事者が戻ってこなければ話もつけられない。
だから凌はこちらの動きがバレないよう、連絡頻度や会話の内容はこれまで通り変わらないように気をつけていると言う。
何か嗅ぎつけてこれ以上帰国が遅れれば、離婚までにも時間がかかるだろう。
「きっと裁判になる。それを考えると苦痛だ。早く終わらせたい」
凌はどこか焦っているようにも見えた。
だけど、この時の俺は何に対して焦っているのかも分からなかった。凌に遠慮していたのもある。あとは彼がこんな状態なのにその気持ちを分かってやれない後ろめたさも。
だから、気づかぬふりをしてやり過ごしていた。
「キチーな、それは」
「アァ。ンなコトしてる場合じゃネェンだ」
「梓もいないしね」
「……本当だヨ」
どうしてこんな時にいないかナァ、と大きな溜息をついた凌がまた度数の高い酒を頼んだ。
彼は決して酒に弱くはない。むしろ強い方だ。
でもいくらなんでも、これは飲み過ぎだろう。
「おい、凌。もうやめろって」
「たまにはいーンだよ。人生に一度ぐらい死ぬほど酒を飲みたい時もあるって」
「もう若くないんだからやめろ!」
「うるせー、放っておけ」
「マスター!酒と同じだけ金取っていいから水にして、水」
まだ酒の残っているグラスを凌から無理矢理奪うと、飲み掛けのチェイサーグラスを彼の前に置いた。凌は水だと気づいていないのか、グラスを7割ぐらいまで空けて「薄い」と文句を言う。
「お前はもう帰れ」
「凌が呼び出したんだろーが!」
「もういい、早く綾乃ンところへ帰れ」
「言われなくても帰るさ!」
しっしっと追い払われてカチンときた。
売り言葉に買い言葉でつい子どもみたいに言い返してしまったけど仕方ない。
「……大事にしたい、ンだ。それのに、してやれネェ。傍にいるだけで傷つけてしまう。そうわかってるのに、手を伸ばしたくなる。だから終わらせなきゃいけねえのに」
凌が何を言っているのか、何に対して嘆いているのか全然わからなかった。彼自身寝かかっていたし、酔っ払っていたから、俺は「はいはい」って聴き流しながらタクシーを呼んで凌を自宅に送った。
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