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2 共同戦線
豆子は異性に淡泊な自覚がある。
仕事ではおもいきりお客さんに甘えてみせるし、男の子と話すことも得意だ。すけべな言葉を聞いても触られても、笑い飛ばせる。
ただ笑い飛ばせてしまう自分が、時々寂しくなるのだ。私って結局、男の人が好きじゃないんだなぁ、と実感してしまう。
だから今まで体を売らなかった。そこを超えると後は何でもありになってしまいそうで、哀しかったから。
「夜逃げ!?」
では同性はどうかというと……こっちは思い入れが過ぎる自覚があった。
シフトの時間にバイト先に行くと、店内は騒然としていた。衣装や貴金属を鞄に詰める子、右往左往している子。その中で比較的落ち着いている年上の同僚に話を聞く。
「そ。店長、だいぶ借金貯め込んでたみたいでさ。あんたもさっさと金目のもの持って逃げた方がいいよ。じきに借金取りのやくざどもが押し寄せてくる」
それは冷たいかもしれないがまっとうな言葉だった。まだ豆子のことを思ってくれているだけ優しい。
「ミリやナツはどうなるの?」
でも豆子は、途方に暮れたように座っている年下の子たちが気になった。
十八歳の豆子より年下、つまり本来なら働かせてはいけない年頃の子たちだ。けれど家族に暴力を振るわれていたり、いじめに遭ったりしていて、家に帰るに帰れない。
同僚は舌打ちして、座ったままの彼女らに声をかける。
「ほら、あんたらも逃げなさい。ここにいたって誰も金はくれないだろ!」
ミリとナツは少しだけ瞳を揺らしたが、やはり動かなかった。同僚は痺れを切らして、豆子の肩を乱暴に叩く。
「ぐずぐずするな。あたしはもう行くからね!」
更衣室の荷物を取りに行く同僚を、豆子は立ち竦んで見送った。
同僚の言う通り、もう誰も給料はくれない。それならここにいる意味はない。幸い豆子はミリやナツのように住みこみで働いているわけではないから、ここを出て別の職場を探せばいい。
けど、地団駄を踏むような気持ちが盛り上がってくる。飲みこもうとしても、感情が喉を焦がす。
感情で走っている場合じゃない。考えるんだと自分に言い聞かせて、豆子は長い間壁にもたれて腕を組んでいた。
結局、ミリとナツは最後まで残ってしまった。そして豆子も。
それまでには、豆子の頭に一つだけ方法が浮かんでいた。
「代わりの店長をよこしてもらって、ここで働き続けることができるようにしよう」
ミリとナツの目に少しだけ光が宿る。豆子はそれを消さないように言葉を続けた。
「これ、私のアパートの鍵。何回か泊まったから場所はわかるよね? 明日の晩には戻るから、冷蔵庫の中のもの適当に食べてしのいで」
アパートの鍵を握らされて、二人は顔を見合わせる。
「めーちゃんはどうするの?」
豆子は前を見据えてうなずいた。
「私はここに残って借金取りと交渉する」
「危ないよ! 相手はやくざなんだよ!」
「気にしなーい」
豆子はへらっと呑気な笑みを浮かべてみせる。
「ダメそうなら逃げるから大丈夫だよ。私、逃げ足早いもん」
それからは暖簾に腕押しの態度でミリとナツをごまかした。自分が明るく見えるのは知っている。まだ二人が事態の緊急性に気づかない内に遠くに逃がしたかった。
「明日の夜には戻るんだよね?」
案の定、二人は甘えたように言ってくる。豆子は、うん、と笑った。
「甘いもの持って帰るよ」
ようやく二人を店の外に出した後、豆子は顔をしかめた。
「……馬鹿」
こんな風だからお金は貯まらないし、夢はどんどん遠ざかる。
それにミリやナツのためだなんて、偉そうなことは言えない。本当に二人のためを思うなら、こんな危ない店で働くのではなく、通報してでも二人を保護してもらうのが正しい。
でも豆子はミリやナツの味方をしたかった。それでいいよ、好きなようにやりなよ、と言っていたかった。そうすれば多少はミリやナツに好かれる。
豆子の中には冷めた矜恃がある。どうせ誰も他人に責任など取りはしない。だったらあなたのためを思っているなど、言われたくもない。
私は私の思うようにやる。間違っていようと、危ない道だろうと。
壁によりかかって腕組みをしたまま、ギラギラしたシャンデリアの下で待つ。
時間感覚がしびれていたから、どれくらいの時が経ったのかはわからない。
店の外に誰かやって来た気配がした。豆子はびくりと肩を震わせて、けれど次の瞬間には笑顔を浮かべてみせた。
「豆子、いるか?」
扉を開けて入ってきた男を見て、豆子はまた変な顔をする。
「……不破」
それは一月ほど前の宴会で会った、あの頼りなさげな男だった。やくざというには幼すぎる顔立ちで、背を丸めてひょいと入ってくる。
「なんでここに?」
豆子はまだ笑顔を張りつけたまま問いかける。
だけど少しだけ語尾が掠れたのを、不破は聞き取ったらしい。
「心配するな。俺だけだ。けどこれからどんな奴が来るかわからないから、すぐ離れるぞ」
腕を掴んで外に引っ張ろうとした不破の手を、豆子は振り払う。
「私はここに残る。店長の代わりに誰かよこしてくれるように頼まないと」
「何言ってんだ」
不破は顔をしかめて豆子を見やる。
「お前一人で交渉できる相手じゃない。店長の縁者かと誤解されて、お前に借金返済をふっかけてくるぞ。お前、まず自分の心配をして……」
「……余計なお世話だ!」
豆子はかっと頭に血が上るのを感じた。
「聞こえのいいことばかり言って、一体誰が弱い者を助けてくれる? 私にとって今一番大事なのは友達なんだ!」
豆子は自分が同性に甘いのを知っている。女の子が困っていると、無条件で助けたくなる。
「あの子たちは私のことを友達だなんて思ってないって、私も知ってるよ! でも女の子は私のことを好きになってくれるじゃないか。好きになってくれる人を大事にして、何がいけないんだ」
どうして一度会ったきりの男にこんな愚痴をぶつけているんだろう。豆子は感情を抑えようとしているのに、不破を見ていると言葉がどんどん溢れてしまう。
不破が言葉も挟まずに聞いているから、余計に感情が止まらない。
「私は自分の手の届くところは守ると決めてるんだ!」
豆子は思う。たぶん自分の中心には、恐怖がある。早い内に両親を亡くし、親戚の家で育った。親戚は豆子に親切にしてくれたが、無条件に守ってくれるわけじゃない。自分で自分を守らなければいけない。
心も同じだ。いつ自分を傷つけるかわからない人たちに、心を開けるわけがない。
そのために、自分に近い人たちを求めた。年の離れた人より同年代、男より女、お金持ちより貧乏。それで、自分に近いと思った人は過剰すぎるくらいに守った。
「私は怖くない!」
……怖くてたまらないから、味方のようなふりをして近づくな。
豆子が叫んだとき、不破の胸に頭を押し付けられた。一瞬息が詰まって、固いスーツの感触に驚く。
「それでいい。怖がればいいんだ」
不破の声はなだめたり甘やかしたりする響きではなかったから、豆子は頭を押し付けられたまま目を見開いた。
「その感情はお前を守るために必要なものだから。大事に持っておけばいい」
なんて説教くさい男だと、豆子は顔を歪める。
怖くないと言っているのに、自分にかかわるなと全身で叫んでいるのに、この男は豆子の内心をたやすく見通してしまう。
不破のスーツは、緑の香りがした。一度だけ行ったことがあるお金持ちの友達の家と同じ品のいい匂いで、なんで夜の世界の人間がこんな匂いをつけているのだろうと不思議だった。
どう文句を言えばいいのかわからず黙った豆子に、不破は体を離して告げる。
「「一人で交渉できる相手じゃない」だけだ。俺が一緒に交渉する」
「え……」
思いもよらないことを言われて、豆子は息を呑む。
「お前よりは情報を持ってる。経験もな。俺はこんな仕事の人間だし、信用しろと言われても難しいだろうが……」
助けてやると言うより頼むような口調で、不破は問う。
「一度だけ、俺の言う通りにしてみないか?」
まったくもう、この男は何なんだよ。
「……わかったよ」
豆子は怒りだしたいような気持ちで、顔は完全なしかめ面で、仕方なくうなずいたのだった。
不破が豆子を連れて向かったのは、川沿いに老舗商店が並ぶ一角の仕出し屋だった。
「ここ、宴会場とかに料理出してるところだよね? 私も名前見たことあるよ」
「見た目はな。でもここが、お前のいた店一体をシマにしてる猫元組の事務所だ」
猫元組、と豆子は口の中でつぶやく。
時刻は夜の十時を過ぎている。けれどこの辺りは旅館や料亭が並んでいるから、人の気配はまだ絶えない。豆子の店の辺りと違っていかがわしい雰囲気もなく、温泉街という印象が強い。
不破は店に置き去りになっていたボーイの黒服を着込んでいる。安っぽい蝶ネクタイとシャツに黒ベストで、中途半端に前髪を撫でつけているから、無理してキャバクラでバイトしている不良みたいだ。
「猫元組は穏健派だから暴力沙汰はないと思うが、それでも気は抜くなよ。話しておいた通りに」
そして豆子はその彼女のキャバ嬢役。普通の同僚じゃ駄目なのかと豆子は文句を言ったが、恋人同士の方が自然だからと押し切られた。
豆子はちらと不破を見上げる。
不安でないのが不思議だった。たった一度会っただけの男と組事務所に乗り込むというのに、わくわくする気持ちさえある。
「どうした。俺だけで行けってか」
豆子の視線に気づいたのか、不破が振り向いてうさんくさそうな目をする。
「言っとくけどな、俺だって怖いんだぞ。でも一応連れがいれば、何かあったとき助けを呼んでもらえるから」
豆子は顔をしかめてため息をつく。
「……私も行くってば。まったく、情けないなぁ」
「情けないって何だ。危機感を備えてない奴は……」
「こんばんはー! 夜分お邪魔しまーす!」
こんな奴に期待した自分が馬鹿だった。豆子は半ばやけな気持ちになって、店の呼び鈴を鳴らした。
「猫元組の方にお願いしたいことが……」
店員は奥から出て来て、不破がそれだけ小声で言うとすぐに二階に通された。
二階から廊下を渡って別の建物に入ると、豆子は思わず周りを見回す。
そこはオフィスだった。店構えは完全な日本家屋だったのに、実は店の背後に美術館ほどの大きさの建物が隠れていたらしい。広々とした吹き抜けの二階部分に五十人は働けそうな数のデスクが並び、奥に二つほど小部屋が見える。デスクには観葉植物や趣味らしいバイクの切り抜きが貼ってある。
さすがにこの時間帯ではデスクに座っている人はいない。しかし小奇麗で明るいフロアを見ると、ここがやくざの事務所だというのは別の意味で信じられない。
「私、夜間窓口担当の者です。どうされましたか?」
ここで働いてる人ってどんなエリートビジネスマンだろう。想像を膨らませながら奥の小部屋に入ると、そこで応対してくれたのはまさに豆子がイメージした通りの男性だった。清潔感のあるスーツに洒落た眼鏡姿で、一見して風俗業と思われる格好の豆子と不破の二人にも丁寧に言葉をかけてくる。
「俺たち、田舎から駆け落ちして来たんです!」
とにかく無力で世間知らずな顔をしろ。不破は豆子にそう教えた。
「それで山下っていう店長のキャバクラで一緒にバイトしてたんですけど、店長が夜逃げしちゃって」
「お店は金目のもの持って逃げる子たちでてんやわんやで」
豆子も困り顔で言葉を重ねる。別にこの辺りは嘘じゃない。
「それはお困りですね。山下の店は我が組の傘下ですし、知らせてくださってありがとうございます」
男は礼儀正しく言葉を重ねたが、それはビジネスライクな響きもあった。次の瞬間には丁重に帰らされてもおかしくない空気だ。
不破は豆子をうかがった。豆子もうなずく。
「それより私、次にどんな店長が来るのか気になって。猫元さんが新しい店長を手配してくださるのは嬉しいんですけど、怖い人だったら……どうしようって」
男は一瞬訝しげな顔をした。猫元組が新しい店長を派遣するという話はない。豆子だってそんな話は聞いていなかった。
不破は懐に手を入れて、何枚かの領収書を机に出す。
「……店長が借金していたのって、なんか危ない感じの人たちだったんですよね」
その領収書の束を目に映したとき、明らかに男の顔色が変わった。
これは切り札だと、不破が言っていた。
領収書は不破が店から持ち出したもので、ぱっと見何の変哲もない借金返済の領収書だが、宛名が猫元組ではないらしい。
――店は猫元組の傘下だってのに、店長は猫元組じゃないところに借金をしてたんだ。しかもそれが……。
「少々お待ちください」
突然目の前の男は立ち上がって、奥に入って行く。まもなく豆子たちは応接間のような広い空間に通された。
この時間帯だというのに、きっちりとスーツをまとった男たちが三人ほどデスクにいて、ちらと目を上げる。先ほどのビジネスマンらしい男と違って、皆眼光が鋭くガタイがいい。
「おや、こんな時間にお客さんかい?」
その中で、六十は過ぎていると思われる白ひげの老人が座っていた。上品で、ゆったりとした和装を小柄な体躯にまとっている。
柔和に顔を綻ばせて豆子に近づいた老人に、不破は警戒心を見せた。彼は不破に笑いかけてそれをやんわりと受け流すと、豆子の前に小皿とお茶を置く。
「うちで出している甘納豆だよ」
故郷の老人たちは豆子に優しかった。それを思い出して、豆子は笑顔になる。
「ありがとう、おじいちゃん。私、あずき大好き。私本名があずさっていうんだけど、豆ならあずきが一番いいよね」
「あずさちゃんか。素敵な名前だね」
「うん! 田舎のおじいちゃんたちもそう言ってくれたんだぁ」
「おい」
不破が豆子の袖を引いて声をかける。
「なんだよ。話し中だよ」
「あのな、そちらの方は……」
「待たせて悪かったな」
デスクから一人の男が進み出てくる。
その男は先ほど応対に出てきた男と違って、明らかに筋の人間だった。年齢は四十代後半ほどで恰幅がよく、厳つい面立ちをしていた。仕草はおっくうそうだが目は油断なくこちらを見据える。
どさりと向かいのソファーに腰を下ろして、男は問いかける。
「山下っていう店長が虎林組に借金をしてたって?」
――お前のところの店長が借金をしてたのはな、虎林組っていう、この辺りで一番やばいことに手を突っ込んでるところだ。
不破の言葉を思い出しながら、豆子は驚いたふりをする。
「虎林組って?」
「なんだ、知らないのか」
――お前は知らないふりをするんだ。猫元組の組長は虎林組の幹部でもある。表立っては争いたくないはずだ。
「お金払ってる組も、店長が誰かもどうでもいいです。私たちは東京で働いて、いつか一緒になりたいだけですよぅ! ね!」
豆子は不破の腕に抱きついて、甘えた声で同意を求めてみせる。
「お、おう……そうだな」
不破はどうしてかしどろもどろになって、目を逸らしながらうなずく。
さっきまで演技過多だったのはそっちなのに、変な奴。豆子が内心で首を傾げていると、不破が身を乗り出して小声で言う。
「店に来てた若衆から察すると、たぶん胴元は柴田。派閥は東原系。中心組織ではないですが、傍系というほどでもない」
向かい合う男は目を細めて低く言う。
「お前はやけに詳しいじゃねぇか」
「俺は店の経理担当でしたし。……こいつ、守らないといけないもんで」
豆子が知らない話をする不破は、別人のように見えた。けれど豆子の頭をぞんざいに叩いたときだけは、こっちが気恥ずかしいくらい優しい目をしていた。
「でも詮索するなというならこれ以上は踏み込みません。俺も結局、こいつと一緒になりたいだけですから」
そう言った不破の横顔が頼もしくて感じられて、豆子は不覚にも少しだけ見惚れた。
ふいに男は噴き出すように笑って、膝を叩いた。
「わかった。猫元からすぐにまともな店長を送ってやる。虎林から人をよこされてはこちらも困るんでな」
唐突に望み通りの言葉を聞けて、豆子は拍子抜けする。
「だからあまりこっちには来るなよ。坊主、嬢ちゃん」
男……猫元組の若頭は不破の肩を叩いて告げる。不破は苦笑してうなずいた。
そのとき、若頭は振り向いて問う。
「親父の人脈を使わせて頂きますが、構いませんか?」
……親父? 豆子は訝しげにそちらの方を振り向く。
するとソファーに座っていたあの白ひげの老人がほほえんだ。
「お前のいいようにしなさい。私はもう隠居の身だから」
「助かります」
老人は歩み寄って来て、豆子が空にした小皿と湯呑を下げようとする。若頭は呆れたように言った。
「親父、そんなことは下の者がしますから」
「年寄りの楽しみを奪わないでくれ。可愛いお嬢さんにお菓子をあげるくらいいいだろう?」
豆子は老人を見上げて気づく。
若頭の親父、つまり組長。
……じゃあこの人、猫元組の一番偉い人だ。
「全部食べてもらえてうれしいよ。あずさちゃん」
急に食べたものの味がわからなくなった。そんな偉い人に、おじいちゃんありがとうなどと言ってしまった自分が恥ずかしくなる。
若頭が席を立ってすぐに、猫元の組長は目を細めて言う。
「不破君にも食べてもらいたかったんだけど、君はたぶん手をつけないだろうね」
不破は肩を強張らせて目だけを上げる。
「……俺をご存じでしたか」
「君は有名だからね。龍守の月岡君も君を片腕にと望んだそうだが……君の心が他にあるのなら、仕方がない」
彼は底の見えないほほえみを浮かべて、不破から離れる。
「あずさちゃんを大事にね」
不破は難しい顔をして、何かを考え込むようにうなずいた。
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