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団地
「もう少しだけ、もう少しだけ安い物件は無いですか?」
を、繰り返して、最終的に提示されたのは市内で最も古い団地、「夢が丘オーロラ団地」だった。健吾は建物の外観と内装を写真で確認すると、その場で契約書にサインした。
夢が丘オーロラ団地が建てられたのは戦後間もない1940年代のこと。当時は高度経済成長の象徴として賑わいを見せたこの団地も、今では老朽化し、住民のほとんどが年金暮らしの老人だけになっていた。そのため、周囲からは限界集落ならぬ限界団地と揶揄され敬遠されていた。
健吾がこの場所に住むことに決めた理由は、もちろん破格の家賃である。
健吾は大学を卒業した後もアルバイトの生活を続けていた。なぜなら彼には時間が必要だったからだ。傑作を書き上げるための時間が。
小説家志望の健吾は、アルバイト以外の時間を執筆作業に費やしていた。しかし、いつも公募の締め切りまでに作品を完成させることが出来なかった。そこで彼は、より短時間のアルバイトに切り替えることにした。そうすると執筆時間は確保できるようになったが、今度は生活費が足りなくなった。輝かしい未来が待っているのに、ここで執筆時間を削ることはできない。そういった訳で、健吾は住んでいたアパートを引き払い、もはや廃墟と化しつつある団地への移住を決意したのである。
健吾は敷地の入り口に立って、立ち並ぶ灰色の建造物に目をやった。表面塗装は剥げてコンクリートが剥き出しになり、鉄や金属部分は錆びついて赤く変色している。敷地内に足を踏み入れると、かすかにお香のような匂いが鼻をついた。そのせいか建物の一棟一棟がまるで巨大な墓石のように感じられた。
健吾の入居するA-4号棟は、ほどなく見つかった。建物に入ると、お香の匂いがますます強くなった。教えられた部屋の前で呼び鈴を鳴らすと、老いた男性の管理人が戸口に現れた。彼は部屋の鍵を差し出すと、建物内のルールについて大まかな説明をした。そして最後に奇妙なことを言い出した。
「この建物の最上階、つまり4階やけどね。そこはカンナビさんが祀ってあるからね。新しく来た人は上がったらあかんよ。カンナビさんの世話をするのは、古くから住んでる住民だけと決まっとるからね。」
カンナビさん?なんだそれは?
詳しく聞いてみようとしたが、管理人は「とにかく4階には上がったらあかんよ。」を繰り返すだけで面倒くさそうに部屋の奥に消えてしまった。
もやもやしながらも、健吾は入居する部屋へ向かうことにした。健吾の部屋は3階で、もちろんエレベーターなんて近代的なものはない。3階まで螺旋状の階段を上がると、さらに匂いが強まった。4階部分への階段の入り口は立て札で遮られていた。さらに内壁にそって木の枠が設置されている。よく見ると、それは鳥居の形をしていた。灰色の無機質な空間の中でそれはあまりにも異様な光景だった。
立て札には人の手でこう書かれていた。
“これよりご本殿。神奈備様に仕えるもの以外の立ち入りを禁ずる。”
なるほど、神奈備と書いて、カンナビと読むのか。よくわからないが、団地の最上階を神社に見立てて何かを祀っているらしい。
となると4階に入居者はいないのか?
こんなものを放置して他の住民から苦情は出ないのか?
いずれにせよ、正気とは思えない。
ひょっとして、この建物の住民の間では、謎の信仰が根付いているのかもしれない。むせかえりそうな甘い匂いと相まって、健吾は気分が悪くなった。
今しがた受け取った鍵を回して新居に入ると、そこは簡素な小世帯用の1DKで、写真で確認した通りの趣だった。畳の居間に腰を下ろして気分を落ち着ける。あと1時間ほどで生活家財が運び込まれる予定だ。部屋を整理したら早速、執筆にとりかかろう。
健吾はとにかく、執筆以外のことは考えないことに決めた。
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