予兆

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予兆

 「それで、4階には上がったの?」  「うん、上がった。」  「げーっ!上がったんかい!!」  香澄(かすみ)は椅子からずり落ちる真似をした。健吾は大盛りのナポリタンを今にも平らげそうになっている。  ファミレスの片隅。兄の相変わらずの能天気ぶりに香澄は呆れた。  「で、何があったの?4階に。」  「何も。」  「何もってどういうこと?本殿っていうくらいだから狛犬ぐらいはいたでしょう。」  「いや、ほんとに何もないんだよ。ただやっぱり入居者はいないみたいだったな。一室だけ、すごく甘い匂いが漏れてる部屋があったから、多分あそこで香を焚いてるんだろう。403号室。あそこにご神体が祀ってあるのかもな。」  それから健吾は高齢者団地の素晴らしさを熱っぽく語った。清掃や草むしりでは若い力を有りがたがれ、何かにつけて差し入れを持ってきてくれるので、食費が大幅に節約される。何より老人の夜は早いから騒音に悩まされることがない。  「団地の夜は本当の無音なんだよ。生活の気配がまるでない。実に静謐(せいひつ)な静寂だ。そこで、パソコンに向かうとだな、あふれ出てくるんだよ、アイデアが。で、どんどん膨れ上がって、キーを打つ手が追い付かないくらいだ。香澄よ、今の俺は一味違うぞ。今の作品が書き上がったら新人賞は間違いなしだ。わっはっは、あ、ハンバーグ追加してもいい?」  兄の近況を少なからず心配していた香澄は、一気に拍子抜けした。  「どうやら、デブになる呪いにかかったみたいね。」  健吾と別れて自宅への帰路の途中。背後から声がかかり香澄は振り返った。  「よう。香澄じゃん。」  「げっ、宇津木先輩?」  宇津木友哉(うつきゆうや)は、香澄が所属しているスキーサークルのOBで、昨年大学を卒業し、今は市内の興信所に勤めているはずだ。本人は名探偵に憧れて就職先を決めたと言っているが、ただ他人のプライベートを覗き見たいだけの下品な動機ではないかと香澄は疑っている。  二人は最寄り駅まで一緒に歩くこととなった。お互いの近況を報告し合った後、香澄は今しがた兄から聞いた奇妙な話を、この陽気な先輩に話してみることにした。  宇津木は興味津々で聞き入っていたが、それから少し深刻な顔になった。        「先輩、どうしたんですか?」  「うーん、カンナビか・・。なんか引っかかるんだよな、その話。名探偵の直感ってやつ?。」  呆れるのは今日これで何回目だろう。香澄は無視することにした。  それからしばらく経ったある日。講義を終えてサークルに向かう香澄の携帯が鳴った。相手は宇津木だった。 「よう、香澄。お前の兄ちゃんの話だけどさあ。あれから気になって色々調べたんだよ。単刀直入に言うとだな、そのばあさんの話ってのはデタラメだな。あの団地で奇形の赤ん坊が相次いだなんて話はない。そんな事実は無いんだよ。おまけにな、あの団地が建てられる前に土着の神様の祠があったっていうのも嘘だ。あの土地はもともと国有で更地だったんだ。」  「どういうことですか?じゃあ、兄の話してたカンナビさんっていうのは?」  「うーん、よくわからんが、一つ言えるのは、団地の老人たちが嘘をついてるってことだ。それも大がかりな嘘をな。何かを隠そうとしてるんだよ。」  香澄は変な胸騒ぎがした。窓の外に目をやると、重く垂れこめた灰色の雲が空を侵食しようとするところだった。
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