危機

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危機

 一か月が過ぎて、香澄は健吾と完全に連絡が取れなくなった。知らぬ間に携帯も解約したらしい。高まる不吉な予感に居てもたってもいられず、香澄は講義が終わると、その足で健吾が住む団地を訪ねることにした。  夢が丘オーロラ団地は、夕陽を浴びて血の色に染まっていた。人気のない寂れた建物の間をぬってA-4号棟までたどり着くと、確かに甘い香の匂いがした。香澄は3階まで駆け上がった。4階への進入口には健吾の言った通り木造の鳥居のようなものが設置されてあった。その異様な光景に一瞬怯みそうになる。香澄は気を取り直して、健吾の部屋に向かった。呼び鈴をならしても扉を叩いても返事はない。取っ手を回してみると簡単に扉が開いた。瞬間、むせかえるような異臭が鼻をつく。ハンカチで鼻を押さえながら室内に歩を進める。と、食べ残して腐った大量の残飯と、これまた大量の原稿用紙で居間が埋められていた。声をかけるが健吾の姿は見当たらない。  原稿用紙の一枚を手に取る。そこには枠線からはみ出して書きなぐられた意味のなさない文字の羅列があった。  “おれはゾッとしたおれが話しているのは洗濯機ではないかなぜおれは洗濯機に喋っているのだおれはくるってしまったのだろうか昔に殺してしまったヘビのたたりだろうかそこでまたギョッとしたおれはまた洗濯機に話しているではないかこれはいけないこれではまるで狂人だ気をとりなおして腕のうろこをはごうとして話しかけるとそれは洗濯機で・・”  兄は明らかに精神に異常をきたしている。もしかして本当に呪われてしまったのだろうか。  背後でくぐもった音がした。どうやら浴室のほうからだ。「お兄ちゃん?」恐る恐る近づいて浴室の扉を開ける。  「ひいっ!」  香澄は後方に飛びすさった。浴槽の中に知らない男がいた。男は猿ぐつわを噛まされ、両手足を縛られて浴槽の中をもんどりうっていた。男の額はぱっくり割れて鮮血に濡れている。  香澄は起き上がると、男の猿ぐつわを急いで解いてやった。  「た、助けてくれ。あいつに、こ、殺される。」  「あなたは誰!?いったい何があったんですか?」  「お、俺はただの営業だよ、布団の営業に来ただけなんだよ。た、頼むからここから逃がしてくれ。あいつが戻ってきちまう!」  突然、着信音が鳴り響いて、香澄は心臓が止まりそうになった。素早く携帯を確認する。宇津木からだった。  「香澄!わかったぞ!団地の最上階に何があるか確認したよ。カンナビって言葉にずっと違和感があったんだ。香澄、これは悪趣味な言葉遊びだ。祀ってあるのは神さんなんかじゃない。詳しく話すよ、今どこにいる?」  香澄は今の状況を手短に説明する。  「団地に居るのか!?そこはヤバい!そこはただの高齢者団地じゃないんだよ!とにかく早くそこから離れるんだ!!」  訳が分からず動揺する香澄の肩に手が触れた。振り返ると、そこに健吾が立っていた。ウサギの目の如く充血した眼球を剥き出しにしている。右手にはバールのようなものが握られていた。  「香澄、お前もか。お前も俺の作品を盗みに来たのか。」  「お兄ちゃん?違うの、よく聞いて・・」  健吾は後ずさる香澄ににじり寄ると、咆哮とともに凶器を振り上げる。香澄は後方にのけ反った拍子にバランスを崩し、浴槽の縁にしたたかに頭を打ち付けた。遠のいていく意識の端に健吾に覆いかぶさる黒い影が見えた気がした。    そして暗転が訪れた。
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