track 1. 論 前編

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「なあ、おい」  諭はまだ眠っているジーンの耳元にそこそこ大きな声をかけた。  ジーンはそれでも起きない。今日も今日とて綺麗に染めた緩いウェーブのかかった金髪を肩までかけて、シミひとつない色白の顔に、まるでヨーロッパ人のような高い鼻をそびえ立たせて眠っている。 「おい、ジーン。起きろ」  やや荒い手つきで諭がジーンの肩を揺すると、ジーンはようやく眼を薄く開いた。色素の薄く長いまつ毛で瞼に(かげ)りを作りながら、鼈甲色(べっこういろ)の瞳を重たげに揺らしている。ジーンは眠っていても起きていても、外国人のように綺麗な顔をした男だった。いわゆるモデル系のイケメン、というやつだ。  身長だって百七十二センチで、自分よりも四センチも高い。百七十の壁を越えている。  そのくせ、ジーンは美容師をしている。 「なに、ロン」  ジーンは舌が回りきらない曖昧な喋り方をした。三つも年上の二十七歳のくせに寝汚い男だ、と諭は内心で若干呆れた。 「なに、じゃない。あの花瓶割ったの誰? あと、その呼び方やめろ。俺はロンじゃなくて()()()だ」  諭は、湿布を貼った右手で、ジーンの高い鼻をむんず、と摘んだ。右手にわずかな痛みが走る。  出会ったばかりの頃に『諭』を『ロン』と読み間違えたのをジーンはそのままに呼んでくることがあるが、正直不快だった。  一重で吊り目で、鼻も大して高くない模範的な日本人の顔立ちをしている自分が、そんな外人じみた呼ばれ方をされるのは劣等感が積もるばかりだ。特に、『ジーン』なんてあだ名を持っているこの完璧なイケメン顔の男の前においては。 「いてて。いいじゃん。僕とペアみたいなあだ名で。花瓶を割ったのは()()だよ」  鼻を摘まれたまま喋ったジーンは、鼻詰まりのような変な声であっけらかんと言い放った。  諭は鼻を強くつねった。 「うるせえよ。今度その呼び方したら許さねえ。そうか……やっぱり割ったのは俺か。悪い、お前気に入ってたよな」  諭はジーンの鼻を掴んでいる右手を下げた。  きっと、自分は花瓶を割ってしまった時に右手を怪我したのだろう。モヤモヤしていた怪我の原因がわかって少々胸を下ろした。  身に覚えがない怪我というのは怖い。何かを壊したのか、寝ている間に自傷行為でもしたのか。  もしかしたら、誰かを殴ってきたのかもしれない。相手を傷つけていたり、知らぬ間に犯罪に巻き込まれているかもしれないから。  または、自分が誰かに殴られていた、という可能性も捨てきれない。  けれど自分は元運動部の筋肉質の成人男性だ。日頃から鍛えている。相手が相当強靭でない限り、自分が殴られるということはないだろう。  そもそも、誰かに殴られるようなトラブルを作ったつもりはない。これでも、至極真っ当に生きてきたつもりだ。つまらないくらいに。  自分が記憶なく右手を怪我している朝は、大抵なにかしらが壊れている。残骸を見るに、自分はよくガラスや陶器などのコワレモノを割ってしまっているらしい。  自分はこんなにも粗忽者(そこつもの)だっただろうか。  諭が自分の怪我と原因を繋いでいると、ジーンは綺麗な顔を均等に動かして、見本のように微笑んだ。 「ううん。大丈夫。あの花瓶もらったお客さんにまだ在庫ないか頼んでみるよ」 「……なあ、それって女だろ? 」  諭は、口の中がざらついた気がした。 「そうだけど? 」  ジーンの瞳は射抜くように光る。 「だ、だよな。とにかくまた割っちまって悪かったな。それはともかく、お前、この捨て方はないだろ。処理しておいてもらってなんだけどな、剥き出しで捨てるバカがどこにいる。怪我したら危ないだろ。なんかテキトーな紙にでも包んでから捨てろよな」  諭は早口で捲し立てると、そばに転がっていた古紙を拾い、ゴミ箱の中のガラス片をひっくり返して包んだ。  ガラス片を丸め込んだ古紙には『浮気調査承ります』と書いてあった。恐らく、ポストにでも突っ込まれていたものだろう。白黒の二回調印刷にクラフトペーパーといかにも安っぽい。  くだらないな、と諭は広告を睨みつけた。 「えへへ。ごめん。ほら、僕バカだからさ、そういうゴミの捨て方とかよくわからないんだよね。まさか誰か怪我するかも、なんてそこまで頭回らなかったや。さすがだね」  ジーンはヘラリ、と笑った。  その間抜けな顔に、諭はイラッとしてしまう。 「お前、二十七にもなって何言ってんだよ。一応俺より年上だろ。これくらい知っておけ。そんな笑い方したって全然かわいくねえ」  諭が吐き捨てるように言ってしまえば、ジーンは明らかに傷ついた顔をした。瞳をかがめて、薄くて形のいい唇の端を切なげに引き結んでいる。 「あ、悪い。いや、その、お前が無知を誤魔化そうとしたことにイラついただけで。ジーンの笑顔はかわいいよ。ごめん、そんな顔しないで」  諭は慌ててジーンに駆け寄った。まだ布団の中にいるジーンの頭をできるだけ優しく撫でて、機嫌をとる。 「そ? ならいいけど。笑顔がかわいくないとか恋人の君に言われたらさすがに僕だってヘコむよ」  ジーンは照れ笑いをしながら唇を尖らせた。ジーンが拗ねた時にするわかりやすい表情だった。  どこまでも子どもっぽいヤツだな、と思う。けれど、ジーンの拗ねた顔は好きだ。自分に振り回されて不機嫌になっているところはかわいい。自分の(オス)としての支配欲が満たされていく感覚がある。 「悪かったって。大丈夫。お前の笑顔はちゃんとかわいいよ。お前はイケメンなんだしさ、自信持てよ」  諭はジーンをさらに撫でくりまわした。  けれどジーンは、唇をより尖らせた。イケメンでもタコ顔は間抜けだ。 「ちがうよ。顔の造形の話じゃないよ。恋人には恋人だからっていう理由でかわいいって言って欲しいの。わからない? 」  吐き出されたジーンの言葉に、諭は不覚にも胸が高鳴った。 「あー。ハイハイ。お前は恋人だからカワイイよ。いつだってカワイイ」 「……心がこもってない」  諭の投げやりに見せかけた言葉に、ジーンは照れ笑いをしながら抵抗した。  そんなジーンの顔に、諭は微かな違和感を覚えた。
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