track 1. 論 前編

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 ほのかに赤くなったジーンの顔を、諭は思わず右手で押さえつけてしまう。突然のことに力加減ができず、ジーンが悲痛そうに顔を歪めた。 「え。ちょっと。なになに。痛いよ」  ジーンの細面の顎から、ミシミシと音が聞こえてきそうになっていて、諭は慌てて力を緩めた。 「あ。悪い。いや、お前。この傷どうしたんだよ。しかも手当せずに寝ただろ。血が固まってる」  ジーン顔の左側には、一センチほどの傷があった。唇の近くで、結構深く切れているのか、傷口で血が赤黒く固まってしまっていた。それだけでなく、左側の頬全体がどことなく腫れている気がする。 「あー。これね。実は昨日深夜に家で転んじゃってさ。このザマ」  ジーンはまたもやヘラリ、と笑った。  諭は自分の眉間に皺が寄ったのがわかった。 「はあ!? またかよ。一体家のどこで転んだらそんな出血するような怪我するんだよ。しかもこれじゃあ、口の中も切れてるんじゃねえの。見せてみろ」  諭が顎を押さえつけて口を開かせようとすると、ジーンは必死に抵抗した。 「いや、口の中はダメだって。なんともないし。それにほら、僕の口の中は虫歯でボロボロだから君には見せたくないって言うか。恥ずかしいからやめて」  ジーンは顔をブンブン振った。その動きに合わせて、諭の右手も振り回された。自分の右手の傷口が疼いて痛い。 「うるせえな。そんな恥ずかしがるような初心な関係かよ。もっととんでもねえことやってるじゃねえか。いいから見せろ。いまさら虫歯とかどうでもいいわ。俺はそこまで潔癖じゃねえ」  諭はジーンの顎をガッと掴んだ。 「ちょ。ほんとやめてってば。しかも朝から下ネタ言わないでよ」  ジーンは諦め悪く、頭をブンブン振った。それでも諭は強引に口をこじ開けた。ジーンは押さえつけられて半開きになった口で、モゴモゴと喋った。  諭はジーンの顎を固定しながら、一瞬固まってしまった。ジーンは変わらずに何か(うめ)いているが、全くもって諭の耳には入ってこない。 「お前……左の真ん中の奥歯ねえじゃねえか。血が出てんぞ。あと左の横らへんの歯も。怪我した時に飛んだのか? おい、歯どこやった? 今すぐ病院に行け。放置してそのまま寝るとか、お前本物のバカじゃねえの?! 何がなんでもない、だ。隠そうとしてんじゃねえよ」  諭は早朝だということも忘れて、狭く壁の薄いアパートで思い切り怒鳴った。顎を押さえている右手にもつい、力が入る。  ジーンの口内は、歯が二本なかった。どちらも左側の下の歯だ。第二大臼歯と呼ばれる奥から二番目の奥歯と、側切歯と呼ばれる笑った時にギリギリ隠れる位置の歯だ。  しかもしっかりと左の頬の内側も切れている。今は傷口がミミズのように赤く腫れているだけだが、そのうち口内炎になってしまうだろう。これは相当傷みそうだ。 「わかったって。歯医者行くから。洗面台に飛んじゃった歯おいてあるし。君のその手の力の方がよっぽど痛いんだけど」  ジーンは曇った表情で諭を睨みつけた。不機嫌な顔だった。 「ああ?! 」  諭は思わず、舌打ちをしながら荒っぽい声を上げた。  すると、ジーンは途端にしょぼくれた表情をした。 「だって……。君に心配かけたくなかったんだもん。病院行こうにも深夜でやってないしさ。そんなんもう寝るしかないじゃん」  その悲しげな声に、諭はようやくジーンの顎を解放した。 「ンだよ。そんな不安な顔するんだったら、深夜だろうがなんだろうが俺のこと起こせばいいだろ。せめて血は拭け。あーあー。綺麗な顔傷にしちゃって。客が泣くぞ。てか、よくお前この状態で寝れたな。相変わらず図太いなあ」  諭は一旦ジーンから離れば、台所へ行ってタオルを水で濡らした。戸棚の救急箱から消毒液も持って、ジーンの側まで戻った。赤黒く固まった血をタオルで拭って綺麗にすれば、消毒液を垂らす。 「い、痛い……」  涙目になってジーンは訴える。 「手当してやってるんだから文句言うな。はあ。お前なあ、バカにも限度があるんだぞ。子どもじゃないんだからもうちょっとしっかりしろよ。怪我したら止血して消毒するって覚えろ」  諭は心の底から、はあ、とため息をついた。どうしてこんなにも初歩的な常識で、年上の二十七歳の男に説教を垂れないといけないのか。 「ごめん。怒ってる? 」  ジーンは眉毛をこれでもかと下げながら聞いてくる。まるで飼い主に怒られた幼気な子犬だ。 「怒るを通り越して呆れてる」  諭が端的に突きつけると、ジーンはさらにしょぼくれた。幻覚だけれど、諭には確実にだらーんと垂れ下がった尻尾が見えた。 「ごめん。マリちゃんに花瓶あるか聞かないから許して」  ジーンの口から出た、『マリ』という知らない名前に、諭の眉毛は僅かに動いた。 「マリって誰だよ。女? 」  諭の声は不機嫌だ。 「うん。美容院で僕がずっと担当している若いお嬢さん。いつも僕を指名してくれるんだ。君が割っちゃった花瓶をくれた子だよ。ほら、この間オシャレなクッキーも食べたでしょ。あれもマリちゃんがくれたの。気が利いて優しい子なんだ」  反対に、ジーンの声は白々しいくらい晴れやかに上機嫌だった。 「あっそう。別にお前が欲しいなら花瓶のことその女に頼めばいいだろ」  消毒液を拭う諭の右手は、若干乱暴になってしまう。  ジーンはゲイだと言っているけれど、イケメンだからなのか異常に女にモテる。ジーンにあからさまに伝えることは諭のプライドが許さないけれど、諭はジーンが女にモテることが心底気に入らなかった。 「ちえっー。かわいくないなあ。女と喋るなよ! くらい言って妬いてくれてもいいのに。まあ、いいけど。それよりそろそろ絆創膏、貼ってよ」  ジーンはつまんなそうな顔をしたと思えば、翻すように楽しそうに笑った。どこから取ってきたのか、薄っぺらい絆創膏を右手でヒラヒラ泳がせている。 「……自分で貼れよ」  諭はそう吐き捨てると、汚れたタオルを持って布団から雑に抜け出した。むしゃくしゃして水洗いもせずに、そのまま洗濯機にタオルを放り込む。  こういうことを毎日繰り返しているせいか、この家のタオルのほとんどに血がついている。 「えー。冷たーい」と、布団から声を投げてくるジーンを無視して、諭はスーツに着替えて出勤の準備をはじめた。  
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