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track 1. 論 前編
ぐっすりと寝入っていたはずなのに、利き手である右手の猛烈な痛みで飛び起きることが週に三回はある。
大抵、飛び起きるのは目覚ましをセットしている三十分前、朝の六時だ。中途半端な深夜に目覚めないことだけは幸いだと思うが、あと三十分眠れたのかと考えれば、地味にストレスだ。
寝ぼけ眼を擦りながら、枕元に置いてある黒縁の分厚い芋っぽい眼鏡を、諭は漆黒の短髪に型取られた色白の耳に挿した。
諭は、ソフトコンタクトレンズでは作成範囲がないくらいの強度の近視と乱視で、眼鏡がないとほとんどモノが見えない。
ようやくクリアになった視界で痛む右手を見れば、手の甲の指の付け根から指先にかけて赤く腫れ上がっている。目を凝らせば、紫がかった痣になっている皮膚も深部に見つかる。これでは痛いはずだ。
またか、と諭はため息をついた。百六十八センチと男性にしては低めの身長ながら、ふんだんに筋肉のついた分厚い肉体を布団から起こす。隣で眠っている恋人のジーンこと稔を起こさないようにして。
諭は大股で十歩ほどの棚へ歩み寄れば、箱からだらりと湿布を取り出して右手に貼った。
二十四歳、社会人二年目の諭は市立大学を卒業した後、地方公務員として市役所の窓口担当をしている。
市公認の堅気も堅気な仕事をしている自分が、この赤く腫れ上がった右手をさらして仕事をするわけにもいかず、外では手袋をして隠している。重症なアトピー持ちだということにして。
垢抜けない同僚たちや、暇な老人が大半の利用者たちには嫌な顔をされるだろうが仕方ない。
湿布が鼻にツーンとくる匂いを発生させているのは承知だが、このグロテスクな見た目の右手を公にさらさないだけ、配慮しているとして感謝をして欲しいぐらいだ。
詳細な年月までは思い出せないが、ここ数年、少なくとも就職活動をしていた三年前には、自分は手袋を着用していたように思う。
だから、右手が赤くない日を見たことがここ数年はないように思う。
ただ、いつからか記憶力が落ちたのか、仕事で疲れて倒れ込むように眠っているせいなのかはわからないが、諭には毎晩の記憶がほとんどない。
居眠りしてしまいそうな退屈な窓口業務を終わらせて、ジーンと同棲しているこの小さなアパートに帰ってきて食事をとった記憶はあるけれど、思い出せるのは毎晩そこまでだった。
諭がふと横を見れば、ゴミ箱の中に、剥き出しの透明なガラス片が放り込まれていた。こんな危ない捨て方をしたのは恐らくジーンだろうと考えながら視点を上げれば、二人前用の鍋を一つ置けば目一杯になる小さなシンクの窓辺に飾られていたはずの花瓶がない。
その花瓶は華奢で、ワイングラスのように滑らかで、無色透明であったにもかかわらず、光に当てられればガラスの中で無数の虹を作り出すような遊びの効いた花瓶だった。たしかジーンが勤め先で女性客からもらってきた花瓶で、ジーンのお気に入りのひとつだった。
諭は腫れ上がった自分の右手と、粉々になった透明のガラス片を交互に見比べた。
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