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五月/菖蒲
さて、ここに一本の菖蒲がある。
剣の切っ先のような葉は凛と伸び、水滴を宿した青紫の花が咲きこぼれている。皐月の風に吹かれていても、流るる水の気配をまとった花である。
その花茎に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、馨はよどみなくやる。
十七の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。紺地のブレザーは、もうすっかり馨の手足になじんで、すこしくたびれ始めてすらいる。朝の静寂に包まれた社のなか、馨は音は立てずに鋏を置いた。
切られた花茎から、微かに香気がたちのぼる。
瞬きをひとつすると、馨のまえに少女の花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話していいかしら」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
眉間をひらいて、花精がかたりだす。
*
彼の絵筆が動くとき、十五歳のわたしはすべてを暴かれたい衝動と、なにひとつ明かさずに彼のまえから逃げ去りたい衝動とのあいだで苦しんだものだった。彼がわたしを描く、油彩絵具のにおいがしみついた作業部屋には、青磁の器にぽつんと菖蒲が生けられていて、それが水気をなくして首を垂らしているのがなんともわたしたちらしく、いまもなぜか彼というとそればかりを思い出してしまうわ。
彼はわたしの画家だった。
より正確にいうなら、わたしたち姉妹を描くために、わたしの父が雇った画家だった。彼が描いた肖像画は父好みの豪奢な額に入れられて、父が目をつけた有力者のもとへと贈られる。上の姉も下の姉も、そうして身にあまる良縁を得た。彼の筆にはどうやら、よき縁を運んでくるふしぎな力があったようなの。
菖蒲。それは彼の雅号でもあった。
知っている? 菖蒲の花言葉は「よき便り」というそうよ。まるでおまえそのものね、とわたしが彼を揶揄すると、もったいないお言葉です、とまったくそうは思っていない口調で彼は目を伏せた。あの小憎たらしい声と表情はいまでもまざまざ思い出せるわね。
わたしは事業家の父の三女として生まれたの。父は造船で財を築いた傑物で、これぞと思った人間に娘たちを嫁がせることで、次々人脈をひろげていった。ひとを見る目にかけては父は確かに抜群の才を持っていたのでしょう。
わたしが十のとき、父が連れてきたのが当時まだ芸大生だった彼だった。父は芸術などはからきしわからないと豪語する人間だったけれど、お得意の人脈のどこぞやから、とびきりうまい肖像画を描く学生がいるという話を聞きつけたみたい。彼の絵をひと目で気に入った父は、上の姉の肖像画を彼に描かせることにしたようよ。もちろん描いた絵は、父が目をつけた鉄鋼業の社長のご子息へと贈られる。
上の姉はこのとき十六。椅子にかしこまって座る姉とたわいのない会話を交わしながら、彼は下絵を何度か重ねた。くたびれたシャツに絵具で汚れたスラックス。けれど、わたしが抱いていた画家というものの印象と異なり、彼は人懐っこく多弁なひとだった。彼の足元でわたしが絵具を混ぜ合わせて遊んでいても文句のひとつもいわず、好きなようにさせてくれる。わたしはすぐにこの青年画家が好きになった。
「画伯さん、画伯さん」
幼い頃のわたしは彼を画伯さんと呼んでいた。彼には別に苗字があったのだけど、はじめて会ったとき、彼が冗談で画伯だと言ったのを幼いわたしは真に受けたのだ。
「おねえさまが終わったら、次はわたしを描いてくださいな」
彼が絵筆をふるうキャンバスのなかに描かれていく姉がうらやましかった。
姉のややしもぶくれの顔は、彼が描くと、やわらかな愛嬌のなかにどこか不安定な艶を帯びて、表情や仕草などは姉そのものであるのに、どこか見知らぬ女のようにも感じる。神経質で癇癪持ちだった姉にこんな愛らしさがあったなんて、とわたしは新しい発見をした気分になった。
「おまえの絵、わたしはとても気に入ったわ」
「それは光栄」
くすっとわらい、彼は足元で絵具を混ぜるわたしに目を合わせた。
「いつか君の番がやってきたら描いてさしあげますよ、お嬢さま」
「ほんとう?」
「ええ、もちろん」
わたしはそのとき素直に喜んだけれど、「君の番」が指すほんとうの意味をわかってはいなかった。
完成した肖像画を父はいたく気に入ったらしい。贈った相手の反応がすこぶるよかったこともあって、父はこの若い才能に投資することを決めたみたい。困窮を極めて芸大の納屋で寝起きしていたらしい彼をわたしたちの家の離れに住まわせ、生活費だけでなく画材費まで惜しみなく援助した。
彼にすれば、してやったりというところでしょう。彼は人懐っこくしゃべり好きで、他方でしたたかで抜け目なく、絵の道を究めるためならなんでもやった。事業家の父に肖像画一枚で取り入り、まんまと金銭的な支援と人脈とを手に入れたのだから、相当な野心家だったのだろうと今では思うわ。
二番目の姉の肖像画を彼が描くことになったとき、わたしは十三歳で、離れで暮らすこの青年画家に淡い恋を抱き始めていた。彼はわたしが生きる世界のどこにも見かけないたぐいの人間だった。父のような抜け目のなさとしたたかさを持っているのに、その眼差しは白いキャンバスに一心に注がれている。目に見えない何かをひたむきに追い続ける彼は求道者のようであり、おしゃべりだけどもほんとうの意味では寡黙で、人懐っこいのに誰とも打ち解けていない。周囲とは異質のたたずまいに、少女だったわたしは吸い寄せられた。
椅子にかしこまって座る二番目の姉と絵を描く彼がいる作業部屋に、わたしは上の姉のときのようには寄り付かなかった。ふたりのあいだで交わされているだろう眼差しの応酬がうらやましく、見ればきっと胸が痛くなってしまうだろうから、庭で摘んだ菖蒲をぱちんぱちんと切って青磁の器に生けていた。
彼が描いた姉の肖像画はやはり申し分のない出来で、姉もまたとない良縁をつかんで屋敷を出ていった。次はきっと。きっとわたしの番。
花が落ちた菖蒲たちのまえで、わたしはうなだれた。
おぼろげに抱いた予感が現実のものとなったのは二年後。ある日、父が白いキャンバスとわたし用にあつらえた高い振袖を買ってきて言った。
――おまえも『菖蒲』に描いてもらいなさい、と。
その一言で、ついに「わたしの番」がやってきたのだとわたしは悟った。幼い頃は待ちわび、近頃は恐怖すらも抱いていた「わたしの番」が。
「大切なお嬢さまです。とびきりよい絵を描いてさしあげましょう」
父に乞われた彼はあたりまえのようにさらりと請け負った。
屋敷の軒に燕が巣をつくる初夏の頃で、彼の作業部屋には青磁の器にやはり菖蒲が一本飾ってあった。日が経ったせいか、菖蒲はすこししなびて、力なく首を垂らしていた。
わたしは父が見繕った振袖に菖蒲と燕が描かれた帯を締め、姉ふたりが腰掛けたのと同じ椅子に座った。わたしは十五歳、出会ったときに芸大二年生だった彼はすでに大学を卒業し、芸大の講師のもとで手伝いをしていた。
「聞きましたよ」
黒炭で下絵を描く彼に、わたしは口をひらいた。
泣きぼくろのある人懐っこそうな彼の目元がきゅっと細まり、「なにを?」と尋ねる。彼は絵を描いているあいだに話しかけても気にしない。ちいさい頃はそれを彼の親しみやすさだと思っていたけれど、いまは彼は絵以外に心をひらいてなどいないから、誰が何を話しかけても平然としているのだときづいた。
「巴里に留学することが決まったんでしょう。おめでとう」
「ありがとうございます。まあ旦那さまのおかげですよ」
彼の言はあながち嘘ではなく、巴里への渡航費や生活費の一部を援助してやったのはわたしの父だった。芸術がわからないと豪語する父ではあったけれど、この青年の才能はいたく買っていた。そして彼のしたたかさと野心をわが身に重ねて愛した。
「姉ふたりを嫁がせた腕で、巴里行の切符を手に入れたというわけ」
やわらかな棘をこめて嘯いたわたしに、「お嬢さまは手厳しいな」と彼は苦笑した。嫌がる風ではない。むしろわたしとの応酬を楽しんですらいる。彼という人間の性根の悪さに一応淑女らしく眉をひそめたけれど、わたしもたぶん心の底では彼との会話を楽しんでいた。
「おまえに描いてもらえる日を待ちわびていたのよ。ずっと……十の頃から」
「光栄なことです」
「でも今はどうでもよく思ってもいる」
「ほう。それはなぜ?」
「――この屋敷には今、わたしとおまえ以外誰もいないの」
肩に落ちたほつれ髪をすくって、わたしは彼を見つめた。
カーテンの隙間から射し込む昼下がりの陽光が、彼の肩のあたりを白く染めている。まくったシャツから伸びた腕は日に焼けており、身の丈より大きく感じる骨ばった手、やけにほっそりした指先、割れた爪には絵具が奥まで黒く詰まっていた。
ふいにこの手に触れられたいと焼けつくように強く思う。やさしくではなく荒々しく、この手に隅々まで暴きたてられてみたい。五年のあいだ胸に秘めた想いが堰を切ってあふれそうになる。
「巴里にひとりくらい愛妾を連れて行ってもよいと思わない?」
わかりやすいわたしの誘惑に、彼はくすっとわらった。
「僕なぞについてきてくださるんですか、お嬢さま」
「自分など、とはおまえは思っていないでしょうに」
「ええ、思っていない、ほんとうは。君はそういえば、はじめから絵具にべたべた触っているふしぎな子だったな」
「もしかして、迷惑だった?」
「使い切られたらどうしようとは思ってた。あの頃の僕は今よりお金がなかったからね」
しゃべりながら、下絵を終えた彼がパレットのうえで絵具の調製をはじめる。今はもう使いつくせないほどの種類の高価な絵具が彼の絵具箱にはしまわれている。そして彼の足元で絵具を出して遊んでいたわたしはもういない。
ここにいるのは、絵筆で女を嫁がせる男、嫁がされる女、それだけ。
パレットを傾け、彼はまっさらな筆に暗い赤色をのせた。
「僕はね、お嬢さま。ひどく破壊的な人間なんです」
「ものを壊したことなんて見たことがないけれど」
「壊すのはものじゃなくてひとだからね」
なんの後ろめたさもなく彼がつけ加えた言葉にわたしは顔を上げた。
彼はわたしを見てはいない。人懐っこさのなかにしたたかさののぞく黒の眸は、キャンバスのうえにひたと向けられている。絵のなかのわたしに語りかけるように彼は口をひらいた。
「生まれたときから絵しか愛せない冷血漢ですから、人間とはキャンバス越しに触れあうくらいがちょうどよいのでしょうよ」
「……まわりくどい返事のしかたね」
「かわいいあなたを傷つけたくなくて」
「嘘よ」
固く言い放ったわたしに、彼は一瞬驚いた風に瞬きをして、それから弓なりに目を細めた。君はそういうところがとてもいいね、と低い声でつぶやく。ほんとうの彼はこんな声をしているんだろうか、と思わせるほど、さらりと乾いた夜闇のような声音だった。
「僕の雅号は知っています?」
「『菖蒲』でしょう」
「西洋には花言葉というものがあってね、菖蒲なら『よき便り』を意味するらしいんです」
部屋の隅に生けられたしなびた菖蒲を目に映し、彼は口角をあげた。
「お嬢さまに『よき便り』が届くよう描きましょう。それが幼いきみとの約束だった」
「……おまえは性格がわるいわ」
「そんなこと。とっくに知っていただろうに」
さざめくような笑い声を立てて、絵具が爪の奥まで入り込んだ手が筆を執る。肌色をのせた絵筆がキャンバスのうえを踊る。彼の眼差しがわたしをさらう。暴きたてる。焼きつける。やさしいのに荒々しく、澄んでいるのに獣じみた欲も同居する。ああ、おまえは女を抱くように筆を執るのね。
・
・
「未練は、彼の絵の完成を待たずにわたしが嫁いでしまったこと」
淡い苦笑を漏らして、花精は肩をすくめた。
「急によい縁が舞い込んでしまったの。嫁いだ相手は親同士の打算はよそに、心根がまっすぐなひとだった。励ましあいながら何度も苦しいときを乗り越えたわ。子どもにも孫にも恵まれて、わたしはしあわせだった」
「……彼は?」
「さいごまで妻帯は持たなかったそうよ」
そっけなく、けれどどこか愛情めいたものを滲ませて花精が告げる。
「風の噂で聞くことがあった。彼は多くの肖像画を描いたけれど、ずっと一枚の絵を手元に置いていて、死ぬまで筆を入れ続けていたと。――その絵がわたしだったらよいのに、と思う程度には、わたしも未練がましかったわね」
「ほんとうにあなたの絵だったのかもしれない」
「どうかしら。どちらにせよ、わたしは彼の描いた絵で嫁ぎはしなかったし、彼もご自慢の絵でわたしを嫁がせることはできなかった。それで、よいのよ」
たとえば、彼の手元に置かれていたのが彼女の絵であったとして、生涯筆を入れ続ける熱の底にあったのは未練だろうか。あるいは、祈り――であったのか。
「ねえ、あなた、すきなひとはいる?」
「いるよ」
間をあけずにうなずいた馨に、花精はあら、と眉を下げて微笑んだ。
「なら今日はすこしだけ、そのひとをじっと見つめてみるといいわ」
「見つめる? かのを?」
「そのひとの向こうにある自分の気持ちに耳を澄ますの」
そして、と彼女は続けた。
「胸の奥に焼きつけるのよ」
悪戯めいた笑みをこぼすと、馨の指先に吐息をかけて消える。
あとはなにもいない。閉じた戸を微かに叩いた風の音に耳を澄ませ、馨は神前にそっと花を献じた。
/承前/
パシャッ、といきなり鳴ったシャッター音に馨は瞬きをした。
見れば、隣に座る鹿乃子がスマホのカメラを馨に向けている。
「え、なに?」
「十七歳になった馨くんをおさめておこうかなって」
馨と鹿乃子はいつものようにバスの待合室のベンチに並んで座っている。鹿乃子の横には通学用の鞄のほかにお馴染みの弓具が立てかけてあった。三連休中に地区大会に出場するらしい。たこができた手には、意外にシンプルなスケルトンケースのスマホ。
「保存したら怒る?」
「……いいけど」
鹿乃子はツーショットというやつはあまりやらない。クラスの女子とはよく撮りあってるけれど、馨が写真が苦手なのを慮って無理にカメラを向けることはやめたようだ。ただ、ときどき不意打ちでシャッターを切ることはある。それはテスト勉強中に馨がうたた寝したときや、家で野菜を洗っているときや、神社の掃除をしているときだったりして、あまり一貫性はない。
「かのは写真、すきなの?」
尋ねると、「すきというか」と鹿乃子はたのしがるような笑みを浮かべた。
「撮りたくなるくらい、きみのことがすきなんですよ」
「へっ」
思わず素で驚いたあと、みるみる顔に体温が集まった。
そ、そうなんだ、とつぶやいて、そわそわとぎこちなく前を向く。
「そんなに照れられるとわたしが恥ずかしい」
「俺も今結構恥ずかしい」
お互い照れあっている空気がいたたまれなくなったのか、「行こうか」と鹿乃子は弓具を肩にかけて立ち上がった。折よく道の向こうから黄色いバスがちかづいてくる。
「ね、馨くん。家帰って着替えたらさ、ダイヤモール行こうよ。たい焼き食べたい」
「小倉? クリーム?」
「今日は小倉の気分かなー」
ぷすんぷすんとエンジン音を立ててバスが到着する。新緑のにおいがする風が遊ぶように吹き寄せて、鹿乃子の三つ編みをひるがえす。なだらかな肩のうえで初夏のひかりが踊る。瞼を閉じて、胸に湧いた気持ちごときみの残像をそっと焼きつける。宝物をしまうように。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、菖蒲がいた。秘めた想いを胸にしまった花だった。
五月/菖蒲(終)
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