一月/侘助椿

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一月/侘助椿

 さて、ここに一枝の侘助椿がある。  真紅の花弁をくるりと巻いた一重の花は、処女雪のうえの落花こそ映える。命尽きたあとの余韻に、艶がやどる花である。  その首に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。  そういう一連の動作を、(かおる)はよどみなくやる。  十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。新年のはじめの朝は、しんとしずまり返っていて、たちのぼる馨の吐息の白さばかりがいのちの気配を纏っている。手のなかの侘助椿をじっと見つめ、馨はいつもよりわずかに緊張した面持ちで鋏を置いた。  切られた首から、微かに香気がたちのぼる。  息を詰める馨のまえに花精が現れた。花精は尋ねる。 「未練をひとつ、話してもよいだろうか」  馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。 「――はい」  ふわりと相好を崩して、花精が語りだす。  *  えー、では、コホン。僕がすきになった彼女について、話してもいいかい?  あぁ、またか、という顔をしているね。君はもしかしたら、正月のたびに毎年のろけばなしをされて聞き飽きたと思っているのかもしれないけれど、僕からすればまだちっとも話し足りないくらいだ。年に一度のこのめでたい日に、すこしくらい僕と彼女の馴れ初めを話したって、へるもんじゃないだろ?  彼女は隣町に住む旧家のお嬢さんだった。  いやいや、もう知っている、という顔をしない。ひとのはなしには真摯に耳を傾けるものだよ。それが君にとってどんなに退屈なはなしだったとしてもね。  話を戻そう。  旧家のお嬢さんだった彼女と僕がどうやって出会ったのかというと、彼女のご両親が高校生になった彼女に花のお稽古を勧めたから。僕がそれなりに続いている華道の家の次男坊として生まれたことは――……あぁ、知ってるね。はいはい、わかったよ。とっとと話すよ。君は僕の甘酸っぱい思い出ばなしなんて聞いてないで、早くかのちゃんと初詣に行きたいんだろう。僕だって、君らの恋路を邪魔するつもりはないから。あぁ、ちがう? えっもしかして……あぁ、そうだよね、君らはどうせ去年も今年も万年バカップルなんだろう。心配するだけ損だった。  どこまで話したんだっけ。  あぁ、花の稽古をはじめた彼女にあてがわれた「先生」が僕だったってはなしだったね。  当時、彼女と僕は同じ十六歳、高校一年生だった。長い黒髪をさらりと揺らして、制服姿であらわれた彼女を見たとき、僕は不覚にも持っていた花鋏を取り落としてしまった。彼女があまりにもかわいかったから。  といっても、僕はポーカーフェイスには自信があったから、表向きにはときめく胸のうちなんておくびも出さずに、華道の家の次男坊らしく涼しい顔で挨拶をしたよ。取り落とした花鋏は、彼女がきづくまえに置き直しておいた。  今日は彼女との初顔合わせで、本格的な稽古は次からだって聞いていた。せいぜい僕が花を生けるのを横から見てもらうくらいだと思っていたから、気楽に構えていたんだ。  なのに、彼女ときたら、挨拶を済ませるなり僕をキッと見据えてこう言った。 「わたしは花を生けることがきらいです。なので、稽古は今日を限りにしてください」  本日二度目の衝撃だった。ちなみに一度目は彼女がすごくかわいかったことだ。  声を失した僕に、彼女は続ける。  ――わざわざ時間を取ってもらって、申し訳ない。今日は両親に無理やり連れてこられてしまったが、今後、花の稽古を続けるつもりはない。もちろん黙ってやり過ごすこともできたけれど、それはあなたに対して不誠実だと思うので、稽古が始まる前に打ち明けることにした。  という主旨のことを訥々と語って、彼女は深く頭を下げた。  中世の武士みたいに潔くて、率直で、あとすこし不器用で……言われた言葉に傷つくより、僕はどちらかというとときめいていた。恋に落ちると、何を言われても何をされてもかわいらしく見えるんだよ。つまり、このときには僕はすでに彼女に落ちていたわけだ。いや、決して「どえむ」とかじゃないよ。君だって、かのちゃんに何をされてもかわいいって思うだろ? えー、おもわないの? 愛情表現の相違かなあ……。 「すきです」  と僕も打ち明けたかったけれど、さすがに前後の文脈がおかしいので、ふんふんとうなずき、「どのあたりがきらいなんですか」と尋ねた。彼女ともうすこし会話をしたかったんだ。  彼女は困った風な顔をした。  でも、ためらっていたのは一瞬で、すぐに花の下ですぱっと切腹でもしそうな強い眼差しが僕をとらえた。 「花を生けるということは、花の命を奪うということ。だから、嫌なの」  なるほど、とうなずきつつ、僕はさっき彼女が困った顔をした理由について思いをめぐらせていた。僕や僕の家のことに想いを馳せて、ちょっとためらったのだろう。  その不器用な正直さがやっぱり僕には好ましく思えた。息をつめて僕を見つめていた彼女が、怪訝そうに眉根を寄せる。僕に対する彼女の不審が最高値に達してしまうまえに、僕は口をひらいた。 「そう言われてしまえば、そうなんですけどね」  僕のまえには、今、一枝の侘助椿が薄く水を張った盆に横たえられている。  すこしまえに、僕が家の庭から切ってきたものだ。雪の積もった庭に映える、ひときわ赤い花を選んだ。鋏を入れると、枝の断面から草木の青い香りがたちのぼる。それはしずかな、いのちのきらめきの終だ。 「花を生けるとき、僕は彼らの声を聴きます」 「……声?」 「そう。彼らが語りかける声に耳を澄ませる。花たちは皆おしゃべりで、僕にいろんな話を聞かせてくれるんだよ。まあ、僕も負けず劣らずおしゃべりなんだけどさ」  くすっと自嘲に似た笑みがこぼれてしまい、僕は首をすくめた。 「でも、君にしてみたら、僕は快楽殺人鬼のたぐいかもしれない。いや、殺『花』鬼?」 「……そこまでは言ってない」 「ふうん。手加減をしてくれるんだ?」 「あなたの言うことがよくわからなかっただけ」 「そう。ま、人間同士でも対話は必要だよね」  微笑みを口元に残したまま、僕は姿勢を正して、侘助椿が横たわる盆に向き直った。常盤色の葉を一枚残した花すがたに目を向け、鋏を取る。細枝に鋏を入れると、あえかな吐息にも似た香りがかゆらいだ。椿の香。つつましやかに澄んだ香りは、やっぱり冬の凍てついた朝にこそ似合う。だけども、この花に関していえば、心をひらくとおしゃべりずきそうだった。  秋にがらくた市で見つけた、トルコ製の陶の小壺に、ひとえの椿をおどるように生ける。首を傾けて、葉の向きを直すと、僕は生けたばかりの椿を床の間に据えた。  がらんどうだった床の間に、花がすっと腰を落ち着ける。  この瞬間の鮮やかさが、僕はすきだ。  彼女は背筋を伸ばして、僕の一連の所作を眺めていた。  僕のほうはというと、彼女という存在をひととき忘れかけていたので、あっしまった、とすこしのばつの悪さを感じながら彼女のまえに座り直す。僕を見つめる彼女の目はなぜか、幼子がはじめて外に出たときみたいにきらきらと輝いていた。 「……ええと、なに?」 「見とれていた」 僕はぽかんと口をあけた。 「あなたはべらべらしゃべっているときより、花を生けているときがいちばん良いな」  彼女の言葉は余計な装飾がないぶん、ストレートに僕の胸を刺す。  瞬きを繰り返し、僕はさりげなく彼女の稽古のためにもらった時間を確かめる。  ――あと四十五分。 「残りの時間」  怪訝そうに眉根を寄せた彼女に、僕はそっと膝を詰める。 「君とべらべらしゃべりたいんだけど、いい?」  残り四十五分で、月と地球ほどあいていた僕と彼女の距離はどれくらい縮められるだろう。至難の業ではあるけれど、挑んでみて損はない気がした。だって彼女はかわいかったし、かわいい子とはできるだけお近づきになりたい。  え? そりゃあ下心だらけに決まっているだろ?   そういう僕のありあまる下心のおかげで、自分がこの世に生まれたってことを君は忘れてないかい? ちょっとは僕の下心とやらに感謝したほうがいいよ。  さて、願い叶って二度目に彼女に会ったときのことだけど――……  ・  ・ 「まあ、こういうわけで、今ここに君がいるんだよ。めでたいね」  自慢げに胸をそらした花精は、馨の顔をのぞきこんで、 「聞き飽きた、という顔をしているな」と息をつく。 「壮大な馴れ初め叙事詩を毎年何時間も聞かされるこちらの身にもなってほしい」 「だめだなあ、君は。会話とはもてなしの心だよ。いつだって、はじめて聞くかのように心を研ぎ澄ませないと。日々の発見はそういう姿勢から生まれるんだから」 「へえーはじめてきいたー」 「棒読みだな」 「棒読みだから」  年越しのあいだ、神主である母の神事を手伝っていた馨は、糊のはった白の浄衣に水浅葱の袴をつけたままだ。徹夜をしているせいで目が赤い。  夜明けまえの殿内には、蝋燭がひとつ灯してある。大きく伸びをするようにして立ち上がった花精は「反抗期かな……」と小声でごちた。すらりと高い背の影が、馨のまえにあらわれる。逆光で表情はわからなかったけれど、口元にほのかな笑みの気配があった。 「おおきくなったね、馨」  骨ばった大きな手がひらりと馨の頭を撫ぜる。  くしゃくしゃと馨の頭をかきまわす仕草をしてから、あえかな花の吐息のようにまぼろしの手が離れた。 「また来年」  馨は背筋を伸ばしたまま、ただ目のまえの侘助椿を見つめている。  また、来年。  この花精とは毎年そう言って別れるけれど、また来年会うことはできるのか、それともこれが今生の別れとなるのか、あるいはほんとうはすべて馨が見ている花まぼろしでしかないのか、わからない。馨は生前のこの花精(ひと)に会ったことなどなかったから。  ――あなたの未練はなんですか。 毎年繰り返される、聞き飽きるほど冗長な馴れ初めばなしのなかに、彼自身の未練はかけらも見当たらない。彼は未練を語らない。これまでも、今日も、きっとこれからも。  だけど、ほんとうは知っている。  今、ここで、こう在ることこそが、拭いきれぬ未練そのものだ。  瞬きもせずに椿を見つめているあいだに、いつの間にか花精は消えていた。澄んだ残り香が漂う殿内で、馨は手の甲で目をこすると、神前にそっと花を献じた。 「また来年」  /承前/ 「馨、餅が焦げる。いや、焦げた」  あまり緊張感のない母の声で、「えっ」と馨は我に返る。  馨が台所でお雑煮の味を整えているあいだに、その惨劇は起きていた。庭に出した七輪で焼いていた餅の端から黒い煙がもうもうと上がっている。おせちを並べていた母が縁側から無造作に手を伸ばそうとするので、 「かあさん、ストップ! 素手はだめ!」  鍋の火を止めて、馨は庭のほうへダッシュする。  この母は年明けの神事などはきびきびとこなすのに、家のことはてんで不向きで、料理は焦がすし、皿は割るし、掃除機もなぜか壊すし、洗濯機もなぜか壊す。本人は至ってまじめにやっているだけなのだが。  焦げかけた餅をなんとか救出した馨は、黒くなった部分をこっそり削って、無事お雑煮を完成させた。こたつの天板のうえには、母に手伝ってもらって馨がつくったおせちのお重が並んでいる。  鶏肉に三つ葉、それと柚子の皮をのせたお雑煮を置くと、馨と母は向かい合って「あけましておめでとうございます」とあらためて年始の挨拶をした。  床の間には、母が生けた椿が一輪、飾られている。  今年は古いトルコ製の陶の小壺だった。がらくた集めが好きだった父が遺した花器のひとつらしい。へえーそうなんだ、とはじめて聞いたみたいに馨はうなずいた。日々の発見はそういう姿勢から生まれるらしいので、さっそく実践している。 「今年、手羽先を筑前煮風にしてみたんだけど、どうかなぁ」 「馨がつくるものはなんでもおいしいよ」 「ケチャップいれたんだよ。洋風おせちの本見て」 「洋風? 面白いことするな。かのちゃんとは今日初詣いくの?」 「んー。あした行く」 「あっ、おいしい」 「だろ?」  一日一花。繰り返される、馨の日常である。  ここに、侘助椿がいた。その花はいまも沈黙のうちにかたわらにある。  一月/侘助椿(終)
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