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二月/ミモザ
さて、ここに一枝のミモザがある。
あかるい檸檬色の小花は可憐で、花冠を受け取れば、目の前にぱっと陽のひかりが舞うかのようだ。長い冬の終わり、春のおとずれを告げる花である。
その枝に、花鋏をあてる。みずみずしさを感じながら、チョン、と切る。
そういう一連の動作を、馨はよどみなくやる。
十六の、とりたてて特徴のない、咲くまえの水仙のように、しゅっと姿勢だけはよい少年だ。紺のブレザーの制服にあかるいミモザの取り合わせは、いっとう華やいで感じられる。濃緑の葉をさらりと鳴らして花枝を置くと、馨は何かを待つように息をひそめた。
切られた枝から、微かに香気がたちのぼる。
目を細めた馨のまえに、レモンイエローのモスリンを揺らして愛らしい花精が現れた。花精は尋ねる。
「未練をひとつ、話してもいいかしら」
馨は目を伏せて、ただ耳を澄ませている。
「――はい」
悪戯めいた笑みをのせ、花精がかたりだす。
*
東洋の島国のかわいい御方。
あなた、ミモザ祭りはごぞんじ? わたくしが生まれた青い海と煉瓦の家々がうつくしい街では毎年二月の終わりになると、街中が黄色いミモザの花で飾られて、春のおとずれを皆で祝うの。石畳の小道には春の花々を飾った山車が走り、子どもたちはミモザの花冠にミモザを編んだ首飾りをつけて、花のあまい香りが立ち込める街を歌をうたって歩く。まるで御伽噺のなかのような光景なのよ。
ミモザ祭りがわたくしも幼い頃からだいすきだった。もちろん黄色い花で包まれる街を見るのもすきだったけれど、この日だけはわたくしも街の子どもたちに混ざって日が暮れるまで歌をうたったり、露店で売られている焼きりんごを食べたり、花冠をつけて踊ったりすることができたから。
さて、その年のミモザ祭り。
十八歳になったわたくしが小さなカフェのテラス席で、人生さいごのアップルパイを食べていると、「失敬」と見知らぬ男の声が足元からかかったの。そう、まちがいではなく足元からよ。フォークにアップルパイを突き刺したまま、わたくしが声のしたほうに目を向けると、わたくしのモスリンをたっぷり使ったクリノリンドレスの端から、チャコールグレーの三つ揃えのスーツを着た紳士が顔を出して、こう言った。
「しずかに。何も聞かずにかくまってくれるとうれしいんだけど、レディ」
悲鳴をあげなかったのは、口の中に咀嚼中のアップルパイが入っていたからよ。いくら鯨骨でふくらましているクリノリンドレスといっても、まさかその端に男が隠れているだなんて思わないじゃない。クリノリンドレスに半身を隠した彼は、注意深く山車が走るミモザロードのほうをうかがう。花冠をつけた子どもたちに混ざって、あきらかに場違いに見える屈強な男たちが数人、うろうろしていたわ。
「いるか」「いない」囁きあう男たちの声が漏れ聞こえたけれど、どう考えても探しているのはこの男としか思えない。わたくしは男たちと彼とを見比べると、しかめっ面をして息をついた。そのうちに、男たちはわたくしの前から去っていった。
「行ったようですけど」
フォークを置いたわたくしが濃い目に入れた紅茶に口をつけると、彼はほっとした風に「たすかった」と息を吐き出した。落ちていた中折れ帽を拾って頭にのせ、わたくしの対面へと腰掛ける。
ミモザ祭りでひとは多かったけれど、あいにくテラス席のパラソルつきの丸テーブルに座っていたのはわたくしだけで、彼があまりにも堂々とわたくしのクリノリンドレスから這い出て、対面の椅子に座るものだから、カフェのギャルソンの目に留まることもなかった。
「ありがとうレディ、と言いたいところだけど。君ってすこし、ひとが良すぎるんじゃない?」
「お言葉ですけれど」
わたくしは不埒な男の革靴を思いっきり踏みつけてやりながら、流れるような仕草で陶磁のカップをソーサーに戻す。
「わたくしが騒ぎ立てなかったのは、あなたをかくまうためではなく、人生さいごの大事な時間を邪魔されたくなかったからよ。わかったなら、とっととどこへでも行って」
「人生さいごって?」
後半部分はまったく聞いていなかったようすで、彼は尋ねた。
歳はわたくしより五つか六つは上だろうか。ヘイズルの髪に同じ色の目をした青年で、口元には不遜な笑みがはかれている。ただどうにも愛嬌のあるひかりが輝く眸のおかげで、嫌みなかんじはしない。
立ち去りそうにない彼を睥睨し、わたくしはアップルパイを切ろうとしたフォークをくるりと回して彼の咽喉に向けた。侍女がいたら青い顔をしそうな行儀の悪さだったが、あいにく「人生さいごの余暇」を理由に随行者はいない。迎えの馬車が来るのは夕方だ。平和なこの街では、窃盗程度の犯罪はあれど、婦女子の誘拐を本気で心配する人間はいなかった。
「あなたこそ、なにをしていらっしゃるの?」
わたくしは彼の追手らしき男たちが去っていった方角に目を向け、尋ねた。彼個人にさほど興味はなかったが、自分からぺらぺらと身の上話をするのは、なんだか負けた気がして癪である。
彼はくすっとわらった。
「問答無用で縛られて閉じ込められそうになったから逃げてきた」
それはなかなか穏やかじゃない。
「なにをしたのよ」とわたしが呆れた目をすると、「無実だよ、僕は」と彼は肩をすくめる。
「わかった、食い逃げね」
「……まあ、それでもいいけど」
お皿に置いていたフォークを取って、彼はアップルパイを勝手に一切れいただいた。「確かに美味だ」と感想を言う彼の革靴を、わたくしはぎゅっと踏みつける。盗人たけだけしい。
「君はどうしてこんなところでお茶なんてしているんですか、レディ」
顔をしかめつつ、彼はフォークをわたくしに返して尋ねる。
ミモザ祭りにあやかって、パラソルには春の花々と一緒にミモザのリースが飾られ、白いクロスが敷かれたテーブルのうえにもミモザの花が生けてある。わたくしが住むこの街の抜けるように青い空にミモザの花はよく映える。だけども、わたくしの心はあいにくふさがっていて、紅茶に無為に追加の砂糖やミルクを入れるのを繰り返した。
「今日は人生さいごの余暇なのよ」
わたくしはさっきと同じことを言った。
クリノリンドレスに入ってきた不埒な男に、自分の胸のうちを明かすのは腹立たしかったが、わたくしが心の内側をこぼせるのは今日でほんとうに最後の気がしてきて、それなら不埒な男でも、盗人でもまあよいか、と投げやりに思ってしまった。
「あした結婚するの。相手は造船業で成功した新興商人の息子。対するわたくしの家はお金はないけれど、たどればそれなりの血筋と伝統があるという、まあよくある家同士の政略結婚よ」
「たしかによくあるはなしだな」
丸テーブルに頬杖をつき、彼は素直に相槌を打った。わたくしを憐れむようでも、わたくしの愚痴に呆れるようでもない。ただわずかにか、愉快そうではあって、「物語ならそこから意外と真実の愛がはじまりますよ」と真剣みのない慰めを言った。
「あいにく現実的なの。相手とはお互いを尊重した穏やかな関係が築ければいいと思ってる」
「そこに愛がなくても?」
「それも愛と呼ぶのよ」
「ふうん」となぜか不満そうにうなずき、彼はまたわたくしのアップルパイを勝手に食べた。この男が立ち去ったら、ギャルソンを呼んで一切れ追加を頼もう。わたくしはひそかに決意する。
「どんな相手なんです? はじめからあきらめたくなるような醜男とか?」
「さあね。送られてきた写真は見ていないの。どうせ、美男でも醜男でも結婚はしなくてはならないのだから」
「意外といい男だと思うんだけどなあ」
「賭ける?」
「アップルパイ、ワンホールでどう?」
彼が持ちかけた賭けは、なかなか愉快に思えた。
砂糖を多めに入れたせいで甘くなった紅茶のなかで銀のスプーンをゆるやかに回し、「たとえばこれが物語だったら」とわたくしは夢見がちな少女の表情をする。大人になるにつれ、胸の奥へと隠してしまった少女のままのわたくし。
「結婚前日にカフェで偶然相席をした殿方に恋に落ち、そのまま駆け落ちをしてしまうのよ。あとには空になったアップルパイのお皿とティーカップ、それだけ」
「光栄だね。駆け落ち相手に選んでくれるだなんて」
「選びようがないんだからしかたないわ」
そう言ってはみたが、紅茶のお代わりをしてもよいくらいには、わたくしは彼との会話を楽しんでいた。そして、夢見がちな少女時代を通り過ぎたわたくしは、この頃には彼の正体にうすうすきづいていたし、彼もそれはお見通しのようだったけれど。
「僕は現実主義だから、君が意中のひとなら合法的にものにするけどね」
「たとえば?」
「たとえば、下心だらけの政略結婚を申し込んだりとか?」
意味深に笑う彼のヘイズルの目を見つめていると、山車の後方からさっきの屈強な男たちが現れた。
「時間切れか」と残念そうにつぶやいて、彼は組んでいた脚を下ろす。近くにいた花売りの少女を手招きして銅貨を握らせると、手に入れたあかるいミモザの花冠をわたくしの頭にふわりとのせた。
「それじゃあ、レディ。またあした」
ミモザ祭りで男から女に贈る花冠は、プロポーズを意味する。
意味はわかっているのかしら、と頭にのせられた花冠に手を添え、わたくしは颯爽と小道に向かっていく男の背中を見送る。なにはともあれ、人生さいごの余暇は終わり、あしたには街のチャペルで再会だ。
春告げの淡い黄色に目を細め、わたくしはくすっと微笑んだ。
「またあした、ミスター」
・
・
「つまり、そのひとがあなたの?」
尋ねた馨に、「ご想像にお任せするわ」と花精は口元に手を当ててさざめきわらう。淡い黄のモスリンを使ったドレスが波打ち、まだ夜明け前の殿内にも陽が射したかのように見える。
「ただ、翌日現れたわたくしの夫が、ミモザの花束を持ってきたことは伝えておきましょうか」
懐かしそうに微笑む花精は、はやい春の空気をまとうかのようで、未練なんてひとつもなさそうに見える。たとえば、翌日彼女の夫が馬に蹴られて死んだとかでなければ。不吉な想像を打ち消して、なにが未練だったのかと尋ねると、「そんなの決まっているでしょう」と花精は頬をふくらませた。
「賭けに負けたせいで、アップルパイをワンホールおごらされたことよ。人生さいごのアップルパイのつもりだったのに、翌日のおやつもアップルパイよ」
思わず、馨は噴き出した。それからここが神前だったことを思い出し、口元を押さえて姿勢を正す。
「笑っていいのに。あなた、笑顔がすてきよ」
「ふだんはあまり笑って聞けないはなしが多いんです」
「今日のはなしは笑って聞けたんじゃない?」
小首をかしげ、花精はクリノリンドレスの裾を持ち上げた。
「じゃあね、笑顔がすてきなジェントルマン」
膝を折ってかがむと、花精は馨の指先に吐息をかけて消える。
あとはなにもいない。やがて格子から射し込んだ朝の陽に馨はつかの間目を細め、神前にそっと花を献じた。
/承前/
「いいなあ、ミモザの花冠。わたしもほしーい!」
この手のロマンスが大好きな鹿乃子は、今日のはなしもお気に召したようだ。ミモザはプロポーズを意味するって言った気がするのだけど。プロポーズってつまり結婚を約束するって意味だと思うんだけど。
じゃあいつかあげるよ、とはとても言えず、馨は気を紛らわせるように百貨店の催し会場を見回した。
「どれが欲しいの? かの」
月替わりの催し会場では今の期間、ホワイトデー・フェアをやっている。
バレンタインに鹿乃子からもらったチョコのお返しを選びに、休日にふたりで来た。べつに馨ひとりでもかまわなかったのだけど、鹿乃子はふたりで選ぶほうが楽しい、と言う。
「んー。かもめ堂のフィナンシェもすきなんだけど、アール・エフのバームクーヘンならふたりでいっぱい食べられるしなー。あっ、でもマカロンもかわいいね?」
真剣な面持ちでお菓子を眺める鹿乃子は、今日は髪をハーフアップにしていて、後ろにミモザの刺繍がされたバレッタを留めてある。
去年の誕生日に馨があげたものだ。まるで花冠みたいだな、と思ってから、自分の想像に面映ゆくなり、馨は大好きな女の子から甘いお菓子が並ぶ店頭にそっと目をそらした。
一日一花。繰り返される、馨の日常である。
ここに、ミモザがいた。春を告げる幸福の花だった。
二月/ミモザ(終)
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