プロローグ

1/1
25人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ

プロローグ

 もうすぐ日付が変わる。  駅前の猥雑な風は、ここまで届かない。  洒落た青銅の看板にちらと目をやり、男は頭を少し下げながらマホガニーの扉を開けた。  カウベルの音が響く。  奥へ伸びたカウンターには誰もいない。 「あ、すいません。もうすぐ閉店なんですが」白髪まじりのマスターが男に声を掛けた。 「ここで待ち合わせなんです。すぐ来ると思いますから、いいですか」  ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめていた男は返事を待たずにコートを脱いだ。ハイチェアに腰を下ろしながら頭に右手をやる。 「素敵な帽子ですね。お似合いです」  男は嬉しそうに微笑んで、黒い山高帽をコートの上に置いた。 「このお店の内装も黒をアクセントにしていて『ノアール』という名前にしっくりきていますよ」  黒い革の手袋を右だけ外し、細身のジャケットのボタンをはずしながらマスターの背中に並んでいるボトルを眺めていく。 「バランタインの12年を。ハイボールで」 「かしこまりました」  マスターが冷蔵庫から銅のタンブラーを取り出す。  氷、ウイスキー、最後に炭酸水が注がれ、男の前にすっと置かれた。  赤茶色の光沢を帯び、ダウンライトを反射(うつ)している。 「これで呑むと、より美味しく感じますよね」  右手でタンブラーの冷たさも味わう。 「ありがとうございます」 「私、バーボンが好きなんですけど、スコッチならバランタインが一番かな」 「お若いのに詳しいですね」 「いやいや、もう三十路を越えていますから。知識も聞きかじった程度ですし」 「スコッチはスモーキーな香りが特徴ですが、このバランタインは甘い香りがしますからバーボンに近い味わいを感じる方もいらっしゃいます」 「そう、そこなんですよ。やはり、こういうお店でマスターの話を聞きながら呑むのは楽しいな」  再び、カウベルの音が響いた。  新しい客は短く刈り込んだ髪を栗色に染めている。  先客がいることに驚いた表情を一瞬浮かべると、がっしりとした体を少し窮屈そうに手前のハイチェアへ収めた。 「ビールを」 「かしこまりました」  三つ離れた席に座った彼へ、男は視線を移す。  満足そうな笑みを見せるとカウンターへ向き直った。 「マスター」  声を掛けられ、ビールの用意をしていた手を止めて男を見る。 「なぜ彼には言わなかったんですか。もうすぐ閉店だ、って」  虚を突かれたように眼が泳いだ。 「いえ、すぐ帰られるお客様だと思ったので」 「ふーん。まぁ良しとしますか。待ち合わせ相手も来たことですし、始めるとしましょう」  その言葉に二人が驚いた。 「お客様、あちらの方とお知り合いなのですか」 「ええ、私は知っています。はじめまして、上村さん」  声を掛けられた彼は動揺を隠せない。 「な、なんで、俺のことを知ってるんだ」 「あなたをお待ちしていたんですよ。を持ってくると思って」  彼の顔色が変わっていく。 「マスターも彼とは初めてですか」 「え、ええ」 「やはり連絡は電話ですね。メールやLINEだと内容が残ってしまいますから」 「あの……何をおっしゃっているのか私にはさっぱり」  マスターの視線が動いたのを男は見逃さなかった。  視界に入っていたタンブラーに影が映り込む。  男は咄嗟に振り向きながら、手袋をはめたままの左手を頭の上へ掲げた。  高い音が短く響く。 「特殊警棒ですか。穏やかに済まそうと思っていたのに」  涼しい顔をした男へ、狼狽(ろうばい)した上村がさらに殴りかかる。  軽く体を沈めながらその一撃も再び左腕で受け止め、がらあきとなった奴の左脇腹へ右拳をめり込ませた。  前のめりにうずくまる奴の右手から、特殊警棒を奪い取る。 「あぁ、破けてしまったじゃないですか。お気に入りだったのに」  手袋を外した男の左手は、鈍色(にびいろ)に輝くステンレスで(かたど)られていた。 「こちらで顧客情報リストの売買が出来る、という話を耳にしていました」  呆然としているマスターへ男は顔を向けた。 「二日前に、ある企業からリストが流出したんです。どうやらアルバイトの男が怪しい、と」  タンブラーに手を伸ばし、喉を潤す。 「公表すると企業イメージの低下につながるので、内密に取り返して欲しいと依頼が来ましてね」  マスターは床に倒れたままの上村を見ている。 「旅行に出られていて昨日までお店が休みだったので、彼と接触するのなら今日に違いない」  男は上村を仰向けにして胸ポケットからUSBメモリを取り上げた。 「彼が目を覚ましたらコピーデータも消去するように伝えて下さい。身元もバレているのだから、これ以上馬鹿なことはしないのがお互いのためです」  黒い山高帽へ右手を伸ばす。  「あの看板、三十万程度しますよね。扉も内装もいいものを使ってる。裏で稼いだ金で贅沢していると税務署にも目をつけられますよ」  聞こえているのかいないのか。マスターは動かない。  男はコートに袖を通し、左手はポケットへ深く入れた。  扉を開けようとした手を止め、振り返る。 「そうそう、近くで国立サッカー場の工事が始まりますよね。また寄らせていただくことがあるかもしれません」  カウベルの乾いた音が響いた。  カウンターの上には千円札が一枚、そして名刺が置かれている。  そこには『よろず屋  月翔(つきかけ) 散冴(さんざ)』の文字があった。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!