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「久しぶり、軒下くん」
美術室のドアを開けると、戸田マリカが椅子に座って微笑んでいた。
俺はしばらく立ち尽くしたあと、同じ姿勢のまま一歩下がってドアを閉めた。
なんだ今の。
え、戸田?
本当にアレ、戸田マリカだったか?
恐る恐るまたドアを開ける。
やっぱり戸田マリカがそこにいた。
さいごに会ったときと、だいぶ変わってしまったけれど。
「ええと……久しぶり?」
「うん、久しぶり。ごめんね、ずっと部活休んでて」
「いや……うん、まあ……」
言葉を濁す俺を見て、戸田は「ああ」と自分の頭を撫でた。
「もしかして、これ?」
「う、うん……」
「だいぶ印象変わったでしょ。どうせイメチェンするなら思い切り短くしようと思って」
「短くっていうか……」
それ、もはや坊主だろ?
女子の坊主頭って初めて見たんだけど。
若干退いている俺に気づいていないのか、戸田は「触ってみる?」とまた自分の頭を撫でた。
「けっこうさわり心地いいよ。ジョリジョリして」
「いや……遠慮しとく」
「そう? 残念」
でもね、と戸田は目を細めた。
「この頭のおかげで、皆、私のことを見なくなったよ」
「いや……」
「すごいよね、ロングヘアだったときはいろんな人が振り返ってたのに、この頭だとみんなスルーしてくれるの」
「いや、だから……」
「これなら軒下くんとデートできる? 軒下くん、私と一緒にいても嫌な思いをしない?」
「いや、それは……」
「さっきから『いや』『いや』『いや』って……軒下くん、そういうところ、あいかわらずだね」
戸田の笑みが、ほろ苦いものに変わる。
俺は、なんて返せばいいのかわからなくて、結局四度目の「いや」を口にした。
そのとたん、汗がつーっと額から滑り落ちた。
実は、さっきから心臓がものすごい勢いで跳ねている。
苦しい。どうしようもなく苦しい。
できれば今すぐここから逃げだしたい。
でも、そうしないのは、戸田の坊主頭の原因がおそらくは俺にあるからだ。
「あのさ、その頭……俺への当てつけか?」
「違うよ。さっきも言ったよね? ただのイメチェンだって」
「けど、きっかけは俺だろ? 俺が──『お前と一緒にいるのが辛い』って言ったから」
ようやく、胸につかえていたものを吐き出す。
それですっきりするかと思いきや、ぜんぜんそんなことはない。むしろ、自分の醜さが際だっただけだ。
その点、お前はすごいよ、戸田。坊主頭でもハッとするほどきれいでさ。
ほんとにお前、すごい美人だったよな。
前にふたりで美術展を見に行ったとき、すれ違う人たちが、みんなお前の存在を確かめるようにいちいち振り返ってさ。中には、展示されている絵画や彫刻より、お前のことをジッと見つめてるヤツがいたりして。ああいうの、ドラマとかマンガの世界だけじゃないんだ、現実でも起こりうるんだって、あのとき初めて知ったっけ。
だからさ、お前が俺に好意を寄せてくれているって知ったとき、すごく嬉しかった。
もちろん、最初はすごく驚いたよ。だって俺、このとおりほんとふつーの偏差値50レベルの外見だから。
──いや、今のはちょっと盛った。実際は顔面偏差値43くらい。つまり平均以下。
なのに、なぜかお前は俺に好意を寄せてくれてさ。
嬉しかった。
ちょっと浮かれたりもした。
けど、そんなの長くは続かなかった。だって、少しずつ雑音が届くようになったから。「え、戸田さんってマジで軒下のこと好きなの?」「なんで軒下?」「え、似合わない」「あり得ない」「軒下に弱み握られてるとか?」「ブサイクじゃん、軒下って」──
きっと、みんな悪気ないんだよな。思ったことをただ素直に口にしてしまっただけで、吐きだした5分後には十中八九忘れちまっている。
けど、言われたほうは忘れない。
だって、少なからずダメージをくらうから。
しかも、それが20人、30人って続くと、当然20回、30回ってダメージをくらう。そういうのがどんどん積み重なって、確実に俺のなかの自尊心が削られてしまって。
それで、つい言っちまったんだ、お前に。
「お前と一緒にいたくない。お前といると注目されてすごく辛い」
あの瞬間のこと、今でも鮮明に覚えている。
お前は一瞬ポカンとして、それから徐々に何を言われたのか理解して、ゆっくりゆっくり顔を歪めて──なのにその顔すらもめちゃくちゃきれいで、俺はほとほとうんざりしてしまったんだ。
ほら、それ。
お前がそんなにきれいだから、俺はますます傷つくんだ。
だから、もうやめてくれ。
俺の隣に並ばないでくれ。
これ以上、俺の自尊心を傷つけないでくれ。
ああ、わかってる。
間違ってるのは俺だ。
だって、俺を傷つけたのはお前じゃない。クラスメイトとか、先輩とか後輩とか、つまりはお前以外のどうでもいい第三者だったのに。
翌日──お前は、俺の望みを汲んだかのように、俺の前から消えてしまった。
この美術室で、長い髪の毛を束ねて真剣にカンバスに向かっていたお前のことを、こっそり眺めるのが好きだったのに。
「後悔したよ。ひどいこと言ったって」
だから今、どんな顔をすればいいのかわからない。
あれだけきれいだった髪の毛を捨てて坊主頭で現れたお前に、今更かけられる言葉なんてあるのかな。
うつむき、俺は息を吐き出した。
遠くで、誰かの笑い声がした。「マジで?」「うそうそ」「えーありえねー」──そんな他愛のない会話。
ここで、この美術室で俺たちもよくあんな会話をした。お互いただの美術部員として、くだらない話をしては声をあげて笑い合ったりしていたはずなのに。
「ねえ、軒下くん」
やがて、ひっそりとした声が、俺の耳に届いた。
「もしかして、私のこと『可哀想』って思ってる?」
「……え」
「だとしたらそれは誤解だよ。私はぜんぜん可哀想なんかじゃない」
「けど……」
「私ね、ずーっと透明人間になりたかったの」
思いがけない言葉に、俺は顔をあげた。
夕闇のなか、戸田は泣きそうな顔で俺を見ていた。
「私ね、子供のころから誰かに見られることが多くて、そのせいでいろいろ大変なめにもあって……だからずっと透明人間になりたかった。なれればいいなって思ってた」
誰も気づかない。
誰もわざわざ振り返ったりしない。
誰からも無視される存在。
「そうなれたら幸せだろうなぁって、それこそ軒下くんを好きになる前から、ずっと」
だからね、と戸田は自分の頭を撫でた。
「私、幸せだよ。この頭のおかげで、透明人間になれたから」
「戸田……」
「これなら、きっと軒下くんともデートできるよね。もう誰かに注目されたりしないもの」
──ああ、やっぱり。
お前は、なにもわかっていなかったんだ。
それは違う、違うんだ、戸田。
お前が誰からも振り向かれないのは、その坊主頭のせいじゃない。
(お前、もうこの世にいないんだよ)
俺がひどいことを言った翌日、へんなヤツに襲われてそのまま──
けど、それを指摘する勇気がない。
だって、目の前の戸田はこんなに幸せそうに微笑んでいるのに。
「ごめんな」
「どうして謝るの?」
「変わるのは……変わらなければいけなかったのは俺のほうだったんだ」
お前はそのままでよかった。
変わる必要はなかった。
透明になることなんてなかったんだ。
ごめん。本当にごめんな、戸田。
何度も繰り返す俺に、お前はやっぱり笑ってみせるんだ。
「謝られるより、ふたりで出かけたいな」
「……」
「前みたいに、画材屋とか美術展とか……あ、ハンバーガーショップでもいいよ。またポテト半分っこしよう?」
俺は、返事をするかわりに戸田の頭に手をのばした。
触り心地がいいって言ってたけど、そんなのわかるわけがない。だって、どうやったって触れられないんだし。
なのに、戸田はくすぐったそうに首をすくめた。
夕焼けのオレンジを乗せた長いまつ毛が、息をのむほど美しかった。
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