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朝の教室は忙しない。
登校してきた生徒が荷物を机に置く音、イスを引く音、クラスメイトと話す声。
昨夜まんじりとも眠ることができず、荒んだ精神状態の光己は雑音に眉をひそめながら、頬杖をついて窓の外を向いていた。
窓の外に珍しい鳥がいるわけではない。目の前にいる古谷の申し訳なさそうにしている顔を直視したくないのだ。
話しかけてほしいのだろう、物欲しそうな顔になっている。光己はため息混じりに声を出す。
「……あれはなんだったんだよ」
古谷は頭を下げた。
「なんの説明もなく変身してしまったことは申し訳なく思っております」
「謝って欲しいわけじゃない。なんで二人で手を取り合ってスラッシュって言うと、光ったあとにヘンテコな姿の男になるんだ」
気だるげにした質問に、古谷は顎に手を当て首を傾けた。
「う〜ん……なぜ、と問われますと難しいですね。まだ証明されていない部分が大半ですからね。僕がどれだけ言葉を尽くしたとしても、十分な説明にはならないでしょう。それでもよろしいですか?」
「ああ、なんだっていいよ。そんな科学だか医学だかの正確な話を聞いても、どうせ理解できないからな。お前とあんな無様な姿になったショックを紛らせてくれるような話なら、変身の話に限らなくっていい。必ず寝ちゃってる古典の授業でも、今なら最後まで聞ける」
「そうやってハードルを下げてもらえるとこちらとしても話しやすいですよ」
「早く話せよ。ホームルームまであまり時間がないんだからな」
「分かりました。では、私とあなたの中にある特殊な遺伝子について、簡単にお話しましょう」
古谷が話すのはやはり古典ではないようだ。
「私とあなたにだけある遺伝子を、我々の組織は『スラッシュ遺伝子』と呼んでいます。スラッシュ遺伝子を持つ者同士が手を取り合い、スラッシュと唱えることで、休んでいたスラッシュ遺伝子が活性化します。その他の遺伝子の情報は書き換えられ、二人の身体が混ざり合う。まるで核融合が起こったように強いエネルギーを発する。溢れたエネルギーは光となり、やがてその光も収まると、そこに私とあなたが合わさった、変身ヒーローがいる……と、こういうわけです」
古谷の淀みない説明を、光己はやはり窓の外の景色を眺めながら、他人事のように聞いていた。妄言としか思えないが、実際に自分の身に起こったことと同じだから、受け入れざるを得ない。
「……どうにかならないのか?」
光己の小さな声に、古谷はまた首を傾げる。
「どうにか、とは?」
「だから……俺とお前がまた一緒にならないように、ヘンテコな遺伝子を取り除くとかして、なんとか無効化できないのか?」
古谷は困ったような顔で口ごもった。光己はその顔を見逃さない。
「方法はあるんだな。けれど、あまりその方法はあまり使いたくない……って顔だな」
「ええ、その通りです。遺伝子を無効化する方法は存在します」
「じゃあ……」
光己が何か言うのを遮るように、古谷が素早く話す。
「少し考えて見てください。私達が持っているこの遺伝子に、なにかデメリットがありますか?」
「あるに決まってるだろ。例えば、そうだなぁ……。俺がお前に何か渡すとするだろ?」
言いながら、光己は机の上にあった消しゴムを持って、古谷に差し出した。古谷はほほえみながら「ありがとうございます」と言った。
「このときに、勢い余って俺の手が、お前の手のひらにしっかり触れたとする。すると、俺の中にあるっていうヘンテコな染色体がひとりで勝手に盛り上がって、またお前と一緒になっちゃうかもしれないだろ?」
消しゴムを渡し終えた光己は手を戻そうとしていたが、古谷の手が伸びてきて、その手を捕まえた。
冷たい感触に、ドキリとした。
断じて恋ではない。ずいぶんと危ないことをすると、ハラハラしたのだ。
「おおっ! おいおい! 何するんだ! 危ねぇだろ!」
光己が腕を振っても、古谷は離さない。
「どういうつもりだ! こんな他の奴らが大勢いるところでまた一緒になったら、大変な騒ぎだぞ?」
慌てているのは光己だけで、古谷は相変わらず落ち着いている。
「心配ありませんよ。よっぽど特殊な状況出ない限り、あの割り算を意味する記号を言うことはありませんから」
割り算を意味する記号……。光己は少し考えて、スラッシュのことだと思い至った。
「まぁ、たしかにそうだな……間違って変身しちゃうってことはなさそうだな」
「その他に不安なことはありますか?」
光己がじっと光己の手を睨んでいると「……失礼しました」と言って、ゆっくと手を離した。
なぜそこで顔を赤らめる……。
「一番の不安は今の自分の身体だ。お前の説明だと、俺の身体の遺伝子は全部書き換えられてるんだろ? その後ちゃんとこうして元の姿に戻ってるけど、変身の前と後の俺はちゃんと同じ人間なのか? まるっきり違う人間になってるのに気づいてないだけかもしれないだろ?」
一つ画像が何度もコピーされていくうちに、画質がどんどん下がっていく……そんなイメージが光己の頭の中にあった。もしかしたら、足の小指の形状が気づかないうちに曖昧になっているかもしれない。
「ふふふ……あなたは面白いことを考えますね。その可能性は否定できません。しかし、遺伝子の修復は変身などする以前から常に行われていて、その修復は数多くのエラーを起こしています。これが老化やガンの原因だと考えられています」
「じゃあ、リスクは同じってことか? 俺には変身後の修復の方がリスクが大きく感じるんだが」
「感覚的にはそうでしょうね。車と飛行機では後者の方が圧倒的に事故の確率が低いというのに、墜落のリスクをより強く考えてしまうのと似ているかもしれません。変身後の修復は元々の遺伝子修復よりも遥かにエラー率が低いと言われています」
光己の頭の中でまた別のイメージが浮かぶ。未来の技術で瞬間移動したときに、身体が再構築される。身体は一瞬この世から消えるが、再構築された身体は元のままだし、精神も変わりがない。それと同じだろうか。
「つまり、スラッシュ細胞は不老の可能性を秘めているということです」
どうやら古谷からスラッシュ細胞の悪口は聞けそうにない。そう判断した光己は他に聞かなければならないことを優先する。
「ワンパンで倒した、あの鬼みたいなやつは? どう見ても人間じゃないだろ」
「定義によりますが、人間です。彼らは私たち組織と敵対している集団が作り出した異形です」
「敵がいるのかよ……。平和にやり過ごしたりできないのか」
「我々は平和を望んでいますよ。しかし、彼らはそうではないようです。遺伝子をいじることで人間を進化させることを目的としています。あの異形を作り出すだけではなく、様々な問題を起こしていますよ」
いつも遅くギリギリに登校する生徒たちが駆け込んできて、まもなくホームルームが始まるチャイムが鳴った。これでようやく古谷との会話を終えられる。安堵しかけた光己だったが、古谷はすぐに席に戻ろうとしなかった。
「どうしてもスラッシュ遺伝子を無効化したいということでしたら、遠慮なくご相談ください」
「相談したって無駄なんだろ?」
「いえ、実は方法があるにはあるんですよ。遺伝子ノックアウトというもので、特定の遺伝子を殺す注射を打つことでスラッシュ遺伝子を無効化できます」
それではと頭を下げて光己は自分の席に戻っていった。
最後になってようやく解決方法を言ったところを見ると、やはり簡単にできるものではなのだろう。金か、あるいはそれに代わる対価か……。
人生思い通りに行くものではないと、悟ったような光己だった。
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