スーパーヒロイン市瀬萌南実

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 国の借金で首が回らなくなった政府が打ち立てたスローガン。それは、「自己責任」だった。  自由放任主義という名の諦めの末、数多の悪行に対してまっとうな取り締まりが行われない、そして膨大な被害者たちの救済が望めない状態へと、社会は急速に変化していった。  厳しい社会状況の中、か弱き民衆にとって一筋の希望の光となったのは、職業スーパーヒーロー、スーパーヒロインであった………のか?           指田遊希(さしだゆき)が玄関ドアを開けると、地上三十階の通路にはスーツ姿が一人、制服姿が二人立っていた。 「おはようございます。こちらがご試着をお願いする品です」  事前に用件を知らされていた遊希は、スーツ姿の男性が差し出した電気錠のかかったジェラルミンケースを受けとると、広いマンションの部屋の最奥にある寝室に向かって呼びかけた。 「萌南実(もなみ)さーん、スーツ来ましたよー!」  返ってきた木霊は、寝起きの不機嫌を隠そうともしない声音だった。 「なにーっ?!」 「試作のスーツ、来ましたぁ!」 「あっそっ!」  遊希は来訪者を振り返った。 「試着には立ち合われますか?」 「いいえ、私は」 「帰って貰ってーっ!」  主の姿の見えない声のお陰で、玄関に気拙い空気が流れた。 「……すみません」 「いえ。もちろんそのつもりでしたので。午前中のうちに、お送りしているチェックシートのご返信をお願いします。では、こちらに受け取りのサインを」  遊希は手渡されたスタイラスペンを、男性が支える認証用の小型ディスプレイの上に走らせた。あらゆる契約の場に登場するこの機械を目にするたび、遊希は一年以上前の大失敗を思い出し、未だに苦々しい気持ちでいっぱいになる。  三人連れが背中を向け数歩向こうに行ったところで遊希は玄関ドアを閉め、少し前から視線を感じていた背後を振り返った。  高級マンションのピカピカと眩しい廊下に、視線の主であるTシャツ短パン金髪の美少女が仁王立ちで立っていた。彼女のくしゃりと寝癖の付いた前髪から覗くのは、紛れもなく非難の眼差しだった。 「どういうつもり?」 「……どうって?」 「おっさんをこの家に上げようとするなんて。絶対にないんですけど?!」 「ええっと、メーカーの人だし、試着してるその場で色々意見とか言った方が細かいニュアンスも伝わるし話が早いかと」 「はぁ!?ないないないない!!試着してるすぐ横におっさんとか、絶対にない!同じ空気吸うのも嫌なのに、あるわけないっ!」  金色を揺らし、市瀬(いちせ)萌南実は激しく地団太を踏んだ。童顔のお陰で身長が高いわりには幼く少女然とした見た目の萌南実だが、実年齢は十八歳だ。傍で働く者としては、彼女にはもう少し大人でいて欲しい。 「せいぜい隣の部屋に居てもらうくらいだし、そんなに嫌がらなくても。むこうも仕事で来てるんですし」 「……もしかして指田、あのおっさんが気になんの?」  萌南実の声がそれまでよりも一段、低くなった。遊希が彼女の付き人になってから半年。その短い経験からでもわかった。これは、萌南実がいつもに増して面倒臭くなる前触れだ。 「確かに……私も服の試着の時に店員さんでも男性に側に居られると、ちょっと落ち着かないかも」 「でしょ!」  遊希が共感する振りをしてみせると、萌南実はあっけなく機嫌を直した。様子を見誤らなければ、彼女の機嫌をとることはそれほど難しくない。この調子で試着もさっさと済ませてもらおうと、遊希は萌南実の横をジェラルミンケースを両手に持って通過し、居間でケースを開錠して中から戦闘スーツを取り出した。 「は?待ってよ。食事もまだなのに、それ着ろっての?」  遊希の後ろを付いてきた萌南実は秒で不機嫌に戻った。 「……朝ごはん、作ります?」 「当然でしょ。今日は和食にして。中途半端な時間に起こしてくれた責任とって、十分以内に作ってよね」  和食を、十分で?厳し過ぎないか?そう思う一方で、遊希の頭の中をこの家の冷蔵庫の中身が駆け巡る。鮭、冷凍してあったっけ? 「味噌汁は絶対付けて。この前みたいにまだ全然冷たいご飯なんて、絶対出さないで。ちゃんとやってよ。あんたの代わりなんて、いくらでもいるんだから」  パワハラ上司の定型句を言い残して、萌南実は寝室へと去って行った。  遊希が職業スーパーヒロイン・市瀬萌南実の付き人となったそもそもの原因は、投資詐欺に引っ掛かったことだった。  法事で地元に戻った時だ。久し振りに会った高校時代の友人に「絶対に損しない」と投資話を持ち掛けられた。遊希は最初、その話を訝しんだ。だが、体裁の整ったサイトを見せられ立派な印刷物を渡され、どうやら大きな会社が関わっているらしい、著名人も投資しているらしいとなり、最後に主催者のフォロワー数が決定打となったところで、ここに投資すれば儲けは確実とすっかり信用してしまった。  それでも、銀行の預金をつぎ込んだだけならまだ良かったのだ。投資額が大きいほど当然儲けも大きいのだと唆され、消費者金融に手を出してしまったのが間違えだった。  配当金は一円も支払われることなく、間もなく、遊希はニュースで詐欺罪で逮捕された主催者の姿を観ることになった。詐欺師が逮捕されたところで投資した金は既に使い込まれた後で、遊希の手に戻ってきた金は投資額の一パーセントにも満たなかった。  それからは、ただただ借金の返済に追われる日々となった。毎月の返済金を勤める会社の薄給で賄うのは難しく、二、三のアルバイトも掛け持ちした。そのうちに副業による疲労で本業がおろそかになり、職務怠慢で会社を解雇され、安定した収入源を断たれた。  正社員の給料より高いアルバイトなんて、そうない。遊希が更に仕事の数を増やし三時間睡眠の生活を続けていた、そんなある日。街中で偶然、大学時代の知人に再会した。  ブランドバッグを腕に提げ高そうな腕時計を手首に光らせた彼女は、中流のマダムたちがたむろすカフェに遊希を誘った。懐が寂しく少しでも節約したい遊希は一度は誘いを断ったが、むこうが奢ってくれるというので、渋々の顔を作ってついて行った。ちょうど、甘いものが無性に食べたかったのだ。  二人で向かい合わせで席に着くと、自分の近況を話題にしたくなかった遊希は聞き役に徹しようと、本音ではあまり興味がない彼女の近況について訊いた。それで、その知人が「スーパーヒーロー業界」で働いていることを知ったのだった。 「スーパーヒーローって、あの、動画とかですごい人気になってるのでしょ?凄っ!」 「凄くないよ。私はただの裏方だし。景気がいい業界だから給料はそれなりにいいけど、環境はかなりブラックだよ」 「お給料、いいんだ」  遊希の表情が一瞬変わったのを、知人は見逃さなかった。 「指田さん、もしかして、うちの業界に興味ある?」  そうして遊希が知人から紹介されたのが、スーパーヒロインの付き人という仕事だった。 「ちょっと……なにこれ…」  試着したスーツを見下ろした萌南実は、思い切り眉を顰め口元を引き攣らせた。それはそれは夢見るようなパステルカラーの衣装には全く不似合いの、極悪な表情だった。 「なにこれっ!こんなんだったら、ダサくても今のスーツの方がマシなんだけど?!」  胸元の生地を掴み衣装をビリビリと破ってしまいそうな萌南実の手を、遊希は間一髪で止めた。 「わわっ!だめですよ!それでも一着数千万はするんですからっ!!」 「……指田って、結局お金だよね」  打って変わって落ち着いた様子になった萌南実が、白けた目で遊希を見下ろした。仕方ないではないか。借金背負っている身だもの。 「それにしても、なにこのスカート丈!これじゃ、ないのと同じじゃん!ただの飾りでしかなくない?!」 「そう、なんでしょうね。でもほら、スカートの中が見えてもいい用のパンツがついてますし…」 「だから!なんでそのパンツがまた、こんなに面積小さいんじゃっ!」  萌南実がスカートを捲り上げ見せつけてきたそのパンツの華奢さ心許なさに、遊希は流石にそれなりに恥じらいを持つ同じ女として同情せざるを得ず、フォローの言葉を出せなかった。 「それに、上も!あいつら乳首だけ隠せば胸隠せてると勘違いしてるだろ!絶対!」  怒り狂う萌南実の姿を、遊希は身の安全を確保する目的もありつつ一歩下がった位置から確認した。試作段階の戦闘スーツは、今現在実際に使用しているものより数段、肌の露出が増していた。しかし、それは製作した方もプロだからか、スレンダーで且つそれなりに筋肉もある萌南実が身に着ける分にはギリギリ下品に傾かず、彼女に似合っていないこともなかった。  内心でこっそり萌南実のプロポーションを羨みつつ、遊希はノートパソコンを立ち上げ、戦闘スーツの製造元から送られていたチェックシートを液晶画面に表示させた。 「えーと、それじゃ試着の感想を」 「ありえない」 「それが感想なのはわかってますけど、えーっと…むこうはデザインのことより、機動性の問題の有無をチェックして欲しいみたいです。まずはヘッドドレスですけど、頭動かしても大丈夫ですか?ずれてきません?」 「……ん」 「『ん』?」 「あ゛ーっ!問題ないっ!」 「はい。じゃあ、内蔵されてる測定器のテスト信号送ります」  その後は萌南実は大人しく…文句たらたらではあったが、試作品のチェックに向き合ってくれた。チェックボックスを一通り選択し終えたところで、最後に自由記入欄が用意されていた。遊希は萌南実に聞いた。 「さっき言われてたの、書いときますか?肌の露出度に問題ありって」 「は?そんなの書いても無駄でしょ」  投げやりに答えつつ、萌南実はもう一秒たりとも着ていたくないといった様子で、乱暴に試作のスーツを脱ぎ始めた。遊希がすぐ目の前にいることなど、 微塵も気にしていない。衆人に過剰に肌を晒すのは嫌でも、付き人の目に対する恥じらいはゼロなのだ。  それ以外を全て脱ぎ去り最重要問題の一つであるパンツを手に掛けたところで、萌南実は脱衣の手を一旦止め遊希に言った。 「やっぱ、書いといて。こんな服じゃ闘いに集中できないわ。こっちは命かかってるんだから、いい加減にしろって」 「わかりました。書いておきます」  主旨は正確に伝わるように、しかし表現は最大限まろやかにして。 「どうせ、相手にされないだろうけどねっ」  萌南実は苛立ちにまかせて、脱いだパンツを丸めて壁に叩きつけた。遊希は片付ける身のことも考えて欲しいと思いつつ萌南実の気持ちを汲んで、どんな機能を備えているか知れないスーパーヒロインの下着を黙って拾った。  現在試作段階である「市瀬萌南実」の新しい戦闘スーツは、数ヶ月前に開かれた戦略会議を受け新たにデザインされたものだった。  会議で問題点として上がったのが、ライバルたちに比して知名度が高いにも関わらず、「市瀬萌南実」関連の有料コンテンツやグッズの売り上げが伸びていないという現状だった。社内の販売戦略担当の分析によると、伸び悩みはスーパーヒロインにとって本来最も重要な顧客である単価の高いコアな男性ファンを「市瀬萌南実」が獲得しきれてないことが原因だ、とのことだった。  おそらく、萌南実や遊希が顔を出したその会議が開かれるより前に、今後の 販売戦略は既に決定していたのだろう。あの日のあの会議室は、上層部の大人たちがデータを羅列し萌南実に彼女の意に沿わないセクシー路線への転向を同意させる、それだけの場だったのだ。  会議中、大人たちの発言を逐一野次り倒した萌南実だったが、彼女も十代半ばからこの業界で働いているプロだ。結局は所属会社の提案を受け入れた。そのぶん、それ以降ストレスからか、それまで以上に萌南実の付き人へのあたりは強くなりはしたが。 「あ、部屋着、着直さないで下さい。すぐに撮影ですから」 「え~。まだ十分くらいあるでしょ?」 「十分しか、です。今日はアパートで洗濯干すシーンからですって。えーっと、衣装さんが用意した服は…」  遊希は全裸の萌南実を背中に、クローゼットから普段着の衣装を取り出した。それらは変身時には一瞬で萌南実の身体から取り払うことができる早着替え仕様になっている。それと一緒に、その中に着こむ戦闘用インナーもあわせて萌南実に渡した。  横で着替えさせている間に、遊希は既に準備が整っているだろう撮影スタジオに電話をかけた。現実の萌南実はセキュリティ万全の高級マンションに住んでいるが、スーパーヒロインである「市瀬萌南実」は、下町の小さなアパートに居住しているという設定だ。アパートのセットが組まれた屋内スタジオでの日常シーンの撮影が、本日の萌南実のスーツの試着に続く二番目の仕事だった。  スタジオのスタッフとの電話の間に割込通話が入った。遊希が先方に断りを入れそちらの電話に出ると、本部のマネージャーからだった。 『事件発生の情報入った。場所送るから、萌南実と急いで向かって。現場に到着し次第、生配信だから』  そう昔でもない以前、まだ遊希が学生だった時分には、街で何らかの事件が発生した又は発生しそうな場合、人々は警察に通報していた。  時は下って、現在。事件に遭遇した人の大抵は警察ではなく、スーパーヒーロー、ヒロインの所属会社に連絡する。事件が戦闘シーンに採用されることになれば、第一情報提供者に報酬が入るからだ。  金にものをいわせて広げた情報網と、国から買った公道を高速でぶっとばす権利を駆使し、スーパーヒーロー、ヒロインとその取り巻きのスタッフたちは、どの公的機関、マスコミよりも早く現場に到着する。今回、「スーパーヒロイン市瀬萌南実」が「悪者と闘う」舞台は、駅から数十メートルの距離にある銀行だった。  先行するワンボックスカー一台と後続のトラック二台に挟まれ、実用的な役割があるようでないパーツで飾り立てられた甘いピンクとブルーにぬらぬら偏光するスポーツカーが、駅前の道路に停車した。運転席から金髪の少女が降り立つと、現場近くを囲む野次馬たちが一斉にどよめいた。  一足先に現場に到着していたスタッフが手を挙げ萌南実の注意を引き、情報提供者を無言で指し示した。心得たスーパーヒロインは自然を装いさりげない歩みで情報提供者に近付き、彼に尋ねた。 「何があったの?!」  何があったかは、既に移動の車中でマネージャーから電話で伝えらている萌南実であった。 「あ、あの、ぎ、銀行強盗が、あの…銀行にっ。中にいる人、ひ、人質にとってるみたいで」  噛みまくりではあったが、合格ラインだ。中には出演を希望していながら、本番になると台詞が飛んでしまう素人もいる。  「正義の炎が胸に灯ったスパーヒロイン」の表情をカメラにしっかり収めさせた萌南実は、誘導係が手招きした先のビルとビルとの間の狭い路地に走り込んだ。その後を、カメラマンと音声担当、照明担当、発煙装置を背負ったスタッフ、そして撮影ディレクター、ヘアメイク担当、付き人の遊希が追い駆ける。その間、他のスタッフたちは、事件そのものよりスーパーヒロインの方に完全に興味が移った群衆の整理に取り掛かっていた。  ビルの壁を後ろにした萌南実は胸に手を寄せ、左手首に嵌めたパールピンクの地に模造宝石がてんこ盛りされた極太ブレスレットを、右手で掴んだ。直後、ブレスレットから四方八方、七色の光が放射された。そして、これもまた七色の、その中に金銀の細かいラメが散りばめられた煙が辺りに満ちた。  外からでは中にいる少女の微かなシルエットさえ判別できないほど濃い煙が立ち籠めたところで、ディレクターが手振りで突入の合図をヘアメイクの女性と遊希に送った。遊希が先頭になって身をかがめ、虹色を含んだ白に埋まって視界の利かない路地に入ると、何かを踏んだ。 「痛っ!」  萌南実の足だった。 「すみません。見えなく」 「いいから!さっさとブーツ渡して!」  遊希は手に準備していた膝まである丈の十センチヒールのブーツを萌南実に渡すと、頭回りのセットはヘアメイク担当にまかせ、持ち込んだその他のアイテムを萌南実に着せていった。ブレスレットと揃いのデザインの眩く光るチョーカー、大きなリボンがポイントのフリルたっぷりの短いラップスカート、レースが施されたちら見せ用のガーターベルト。最後に、萌南実が長さが二の腕まである手袋を嵌めるのを手伝った。 「こっちはもういいから、そろそろ撤収して」  萌南実の指示を受けた遊希は、地面に放置されていた変身前の衣装を回収すると、地面に送風機を置き、そのスイッチを入れた。 「山本さん、出ますよ!」  萌南実の髪にあともう一櫛入れたそうなヘアメイク担当の腕を引き、遊希は路地から脱出した。そのすぐ後、煙が晴れたその場所でカメラの前に姿を現したのは、お馴染みの戦闘用コスチュームに身を包んだ我らがスーパーヒロイン「市瀬萌南実」であった。変身のテーマ曲が終わった頃合いでディレクターがキューを出すと、萌南実は人質となった人々が囚われている銀行の建物に向かった。  萌南実が去った後の路地には、壁にも地面にも、虹色の粉塵と極細ラメが貼り付いていた。これを元の状態に復元するのは配信終了後、また別のスタッフの仕事だった。ついでに遊希の服にも髪にも煌めくものが光っているが、服は捨て、髪は十分に洗い流さなければならないことだろう。しかし、今はそんな後々の些末な面倒事など気にしてはいられない。これからが本番。いよいよ戦闘シーンに入るのだ。   職業スーパーヒーロー、ヒロインが提供するショーは、虚構と現実で出来ている。  ヒーロー、ヒロインは虚構の存在だ。彼彼女らは作られたプロフィールに沿った行動をし、正義の執行者役を演じ切る。だが、ショーの舞台となる事件、そしてショーの中で悪役にあたる犯罪者たちは現実の存在だ。そう。萌南実はこれから、本気の立てこもり犯と闘わなければならない。  しかし、丸腰の萌南実も単身で犯罪現場に乗り込むわけではない。特に相手が複数、もしくは強力な武器を所持している場合には、補佐役…現実には主戦力となる狙撃手たちが彼女と共に前線に送られる。今回も萌南実の変身シーンを撮影している間に、サイレンサー付きの銃を携えた狙撃手たちが一足先に銀行の周り移動していた。もちろん、彼らはカメラに影も映されない。彼らは見世物にとって最も映ってはいけない最も「現実的」な役目を担っていた。  萌南実は建物の窓を避けつつ移動し、銀行の出入り口のすぐ横まで辿り着いた。自動ドアの脇の壁に背を付け一息ついた後、建物内にいる犯人に向かって大声で呼びかけた。 「これ以上立てこもっても無駄だから!諦めて大人しく出てきなさい!」  パンッと発砲音が鳴り響いた。さっきまではなかった蜘蛛の巣状のひびが、自動ドアのガラスに広がっていた。 「誰がお前らみたいなのに付き合ってやるか!!人質を死なせたくなかったら、早く車を回せ!さっさとしろ!」  萌南実は実弾に怯む様子もなく、冷静な手つきでヘッドドレスから片目を覆うスクリーンを引き出した。手の平よりも小さいスクリーンに流されたのは、特殊カメラがあらゆる角度で撮影したデータをもとに合成した、建物内の3D画像だった。立てこもり犯三人のうち、二人が奥で十数人の人質に銃を向け、残った一人がより表に近い場所で外を警戒しているのが見て取れた。  萌南実がいる銀行の正面入口とは全く別の場所に潜む狙撃部隊のリーダーが、ディレクターに配置完了を知らせる無線を入れた。準備は整った。萌南実はすぐにでも単身、現場に突入できた。しかし、それはまだできなかった。社会的に最も重要な手続きが、まだ済んでいなかった。  このまま萌南実が入り口前でただ待機しているだけの退屈な画面が続けば、視聴者たちの関心は離れていってしまう。禁煙を宣言していたはずのディレクターが、煙草の箱を上着の内ポケットから取り出した時だった。待ちかねていたマネージャーからの連絡が全スタッフのイヤホンに届いた。 『人質の家族全員から了承取り付けました。突入OKです』  今回の様な一般人が犯罪に巻き込まれ危険にさらされている状況の場合、スーパーヒーローが関わることで最悪の事態になったとしても賠償金の支払いで納得するという契約を、事件に巻き込まれている本人と、それが無理ならその家族と交わすことが何より大事だ。  それは一見、命と金を秤にかける残酷な契約だった。しかし、ヒーローが関わった事件の方がそうでない事件よりも被害者の死傷者数が格段に少ないことが一般に知られており、尚且つ、ヒーローを関わらせずに死傷した場合には何の補償もないのだから、皆がヒーローの所属会社とのその契約に踏み切るのは当たり前のことだった。  イヤホンから戦闘シーンのテーマ曲が流れだした。これが始まると、もう後戻りはできない。  曲の最初の盛り上がりがくる前に、乾いた銃声が連続して響いた。その音はマイクに拾われはしなかった。人質に銃を向けていた犯人二人をスナイパーたちが始末した音だった。  ひとり入り口近くにいた男は仲間の異変に気付きはしたが、何が起きたかを確認する余裕はなかった。スーパーヒロインが銀行の正面入口から男に駆け足で向かって来ていた。  男はすぐに萌南実に銃口を向けたが、萌南実が歩みを止めることはなかった。引き金に指をかけた男の目は、萌南実の後ろで焚かれたストロボで眩ませられた。  だが男は一発、銃弾を発射した。その弾はぎりぎり萌南実の脇をかすったかもしれなかった。しかし、弾は萌南実に触れる直前に不自然に弾道の方向を変え、彼女にかすり傷ひとつ付けなかった。萌南実の戦闘スーツはただ無駄にファンシーなだけでなく、着用した者を最先端技術で最大限に守る優れた防護服だった。  武器は持ってはいても動転しきっている男など、百戦錬磨の萌南実の敵ではなかった。一気に相手との距離を縮めた萌南実は振り下ろした足で男の手から銃を叩き落とすと、続けてみぞおちに拳を突き入れた。そこで終わらせることはなく、呻き屈みかけた男の顔には膝を喰らわせた。  男が反撃不能になったところで、萌南実は男から離れ拳銃を床から拾い上げた。そのタイミングで、スタッフ数名がカメラに撮られない経路を選んで行内に駆け込んだ。勝ったスーパーヒロイン、負けた悪人、それぞれの姿をカメラが収めている間に、スタッフたちは狙撃手に撃たれた犯人の死体二体を引き擦り、フロアの端へと移動させた。  圧倒的な現実が取り敢えず片付けられた後、虚構のヒロインは床に座らされていた人質たちに歩み寄った。 「大丈夫?みんな、怪我はない?」  人質たちは皆、呆気にとられていた。突然銀行強盗に人質に取られ、その自分たちを拘束していたうちの二人が姿の見えない狙撃手に突然射殺され、そうこうしている間に妙な格好をした笑顔の少女が目の前に突然現れたのだ。スーパーヒーロー、ヒロインがどういったものか知っている者が殆どだったとしても、あまりに日常離れした展開に理解が追いつかないのが当然だった。作品的には、ここで「ありがとう!おねえちゃん!」とスーパーヒロインに駆け寄る子供などいれば大変有り難いのだが、制作陣ももうそのあたりのことは諦めている。 「さぁ、みんなの家族がきっと外で心配して待ってるよ。無事な姿をみせてあげなくっちゃ!」  萌南実が絶対的圧倒的な自信を湛えた顔で出入り口の方を指し示すと、思考停止状態の人質たちはふらふらとそちらに向かって歩いて行った。  背筋を伸ばし自らが救った人々を見送っていたスーパーヒロインだったが、彼女は視界の隅の床に黒っぽいものを捕らえた。表情は微塵も変えずに死体はもっと端に寄せとけよと思いつつそちらを見た萌南実だったが、黒っぽいものは死体ではなく生きた年配のサラリーマンだった。  その男性は立てこもり犯が狙撃手に射殺された時、運悪く死体をその体で受け止めてしまった人物だった。人間が殺される瞬間を間近にした彼はショックのあまり立ち上がれなくなっていた。  スタッフらは彼をヒロインから遠ざけるべく動き出そうとしたが、萌南実の演者としての目には光が走っていた。そして、その光をカメラマンは見逃さなかった。  萌南実はサラリーマンの前に膝をつくと、手袋を嵌めた手を彼に差し出した。 「大丈夫。もう安全だから」  男性は目の前の萌南実にではなく、フロアの奥まった場所に移動させられた死体の方に顔を向けた。 「あ、あ、あのひとたち…し、し…」  まずい。スタッフ全員が思い、ディレクターもここまでだと事故的な終わり方であっても配信を停止しようとした。しかし、ヒロインは動いた。 「本当に怖かったんだね。大丈夫。大丈夫だよ」 「う…」  萌南実は慈愛たっぷりに男性を抱擁した。だが、遊希の角度からは見えていた。スーパーヒロインは男性がこれ以上余計なことを言わないよう、彼の口をしっかりと押えていた。 「はい!オッケー!」  直後のディレクターのその一声で、生配信はきり良く終了した。  萌南実はカメラのレンズが自分からはずされると、すぐに立ち上がり、いまだ正気に戻れていない男性を一切気遣うことなく彼から離れると、長い手袋を脱ぎながら一直線に遊希に向かって来た。 「ティッシュ!早く!」  人は強烈な嫌悪感に襲われると無表情になる。今の萌南実がまさにそうだった。遊希が萌南実に彼女の為に常に用意している除菌ティッシュを渡してやると、スーパーヒロインは男性に触れたと思われる頬や髪、肩、手袋で隠れていた手までを執拗に拭いた。  ほんの少し前まで演じていた心優しいヒロイン像。その直後の、男性嫌い全開の現実の姿。派手で大掛かりなシーンを挟んだ変身よりも、カメラが映さなくなった途端の変わり様の方が遊希の目には鮮やかであった。
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