若者よ。

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①  私はどういう訳か、足早に通り過ぎる若い男に目が留まり、やたらと気になった。  20代半ばだろうか。    会社員とおぼしきスーツ姿のスマートな男だ。  男は信号が赤になると、落ち着きなくソワソワしている。  仕事を終え、家路につく者や店に立ち寄る者が行き交う交差点。  信号が青に変わるが早いか、男は歩幅を広げてスタスタと進んで行った。  何をそんなに急いでいるのか。  急ぐ理由はいろいろある。  トイレか?  電車に乗り遅れてしまいそうなのか?  彼女との待ち合わせ時間に遅れそうになって焦っているのか?  待ち合わせの可能性は濃厚だ。  男の手には、小さな赤い紙袋がある。  貴重な物でも入っているのか、大事そうに抱え込むようにして持っている。 (ああ。もしかしたら……)  もしかしたら今夜は、男にとって人生で一番の勝負の夜なのかもしれない。  あの紙袋の中には、指輪が入っているのではないか?  今夜彼女に、思いきってプロポーズをするのかもしれない。  だからきっとはやる気持ちに足が反応し、あんなにも急いでいるのだろう。  それに、遠目にも何となく分かるほど緊張したような表情だ。  私にも同じ経験がある。  ずっと昔。若かりし頃――  私の場合、同僚に彼女を奪われ見事にフラれてしまったのだが……  程なくして同僚と彼女は結婚し、1年後には子供も産まれた。  できちゃった婚だったらしい。  鈍感でめでたい私も私だが、二人には、もっと早くにちゃんと打ち明けてほしかった。 「どうしてくれるんだ、この指輪……この心……」と、なげいていた頃が今となっては懐かしい。 「ふふっ。がんばれよ、若者。幸運を祈る。  万が一、万が一ダメだったとしても、これからの人生、何事もあきらめずに突っ走れ」  私の目じりが自然と下がり、そうつぶやいていた。    男は次の信号につかまり、さっきよりももっとソワソワしながら立ち止まっている。  気が気ではないのだろう。  止まっているからチャンスだ。  私は早歩きで、男に近づいて行った。  よく見ると、紙袋の大きさからしてどうやら指輪ではなさそうな感じだ。 (思ったよりちょっと大きめだったな。それに……)  紙袋に書かれてある店の名前までは分からないが、何やら子供じみた可愛い系の紙袋だ。 (ああ。そうか……)  あの中には、おもちゃが入っているのではないか?  この男はもう既婚者で、父親でもあるのかもしれない。  今夜は幼い我が子の誕生日で、「早く帰るからママと三人でお祝いしよう」と、約束しているのかも……  約束通り、1分でも早く帰ってやりたい――  男のソワソワした様子は我が子を思う父親の、きっとそんな心情あってのことなのだろう。  残念ながら、私にはそういった経験はない。  あの時、同僚に裏切られ彼女に見事にフラれてからはろくに誰とも付き合わず、いまだに独身なのだから――  二人は経験したのだろうな……産まれたのは女の子だったと記憶している。  まあいい。大昔の話だ。 「ふふっ。ほほ笑ましいな。  子煩悩な若いパパさん。楽しい時期は走馬灯のように過ぎていく。  だから今を大切に生きるんだ」  私はまたしても目じりを下げてつぶやいた。  信号が青になると、男は小走りになり進んで行った。 (……ん?)  男はなぜか、人気(ひとけ)のない路地裏の方へと向かっている。 (おいおい。なんだってあんな所へ……?)  私は、ますます男から目が離せなくなった。  そういえば、緊張でこわばった表情からして、子供の誕生日祝いというイメージではない。  男に何があったのか……  私は男を追い、歩く速度をさらに上げた。  男は路地裏の入口でいったん足を止め、周囲をチラチラと確認している。  誰がどう見ても挙動不審だ。 (そんな……ひょっとして……)  あの可愛い紙袋はダミーで、中にはまずい物が入っているのではないか?  男は実は麻薬の売人で、特定の客に薬を売っているのかもしれない。  あまりにも極端な発想だろうか。  しかし、そんなふうに考えたくはないが、今時考えられない事もない。  明らかに、男の様子はおかしい。普通ではないのだ。 「……あ……!!」  私は思わず、声を上げた。  大通りから、目つきの鋭い数人の男たちがそれぞれとの距離を不自然に離しつつ、こちらに向かい歩いて来ていたのだ。  麻薬の密売組織なのか――? (いや、違う……奴らは……)  あの男たちは、刑事だ――!  あの眼光は間違いない!!  若い男は路地裏に入ったのか、姿が見えなくなっている。  彼は刑事たちに全く気づいていなかった。このままだと確実に捕まってしまうだろう。 「に、逃げろ……逃げるんだ……!」  私は声を震わせ、無意識にそう言っていた。(ひたい)には冷や汗までかいている。  どうして……  ただ何気(なにげ)に見かけて気になっただけの男なのに……  それなのにどうしてこんなに感情移入できるのか――  次の瞬間、私はすさまじい勢いで走り出していた。  だが、私が走って行っているのはあの若い男の元ではない。  そして刑事たちもまた、男が入って行った路地裏ではなく、私の方へと走って来ているではないか。 「捕まってたまるか!!」  私は逃げた。  猛追して来る刑事たちから、無我夢中で。  走って、走って、走って――  ひたすら走り続け、ひたすら逃げ続けた。  そう。あの時も私は逃げた。  同僚は私から唯一無二の存在だった彼女を奪い、私は同僚から唯一無二の命を奪った。  四年にも及ぶ恨みを、私は晴らしたのだ。  くしくもその日は、同僚と彼女、二人の娘の誕生日だった。  私はとっさに、同僚が持っていた紙袋に凶器を入れた。  その紙袋には、多忙な中、同僚が昼休みに慌てて買って来た幼い娘へのバースデープレゼントが入っていた。  私は隠すようにしっかりと紙袋を抱え込み、夜の街を通り過ぎた。  信号で止まる度にドキドキしたものだ。  忘れられない緊張感と動悸……  私は人目を避けるため路地裏に入った。  誰も居ない路地裏に来ると私は、同僚が愛娘に何を買ったのか無性に知りたくなり、紙袋の中からキレイに包装されたプレゼントの箱を取り出した。  そんな時に……自分でも信じられない。そんな時にだ。  まだ震える手で包装紙をなんとかはがし箱のフタを開けると、  箱の中には手回し式の木製オルゴールがおさまっていた。  ハンドルを回してメロディーを鳴らせば、木枠(きわく)の中で馬の影絵が四季を駆けめぐる楽しい仕掛けになっている。  まるで、走馬灯のようだ――  オルゴールを凝視し、私は思案した。  四度の春夏秋冬をずっとこらえてきたのに、なぜ今になって私は同僚を(あや)めてしまったのだろうか。  多分、彼の口からハッキリと聞いてしまったせいだろう。 「幸せだ」と。  長らく私に遠慮して私の前では決して口にしなかった、同僚のその一言を。  おそらく同僚は、そろそろ“時効”だと判断したのだろう。  殺される直前まで、彼は嬉しそうに笑っていた。  だから私は彼に教えたかったのだ。  幸せな時間ほど、あっと言う間に過ぎてしまうものなのだと。  事件からもうすぐ15年――  私はこうして走り続ける。  自由を手に入れる夢がかなう、その時まで……  笑って過ごせる、その時まで……  その時は近い。もう目前に迫っている。  だから若者よ。  あきらめずに突っ走れ。  悔いなく生きろ。  笑って生きろ。  人生は、  ――走馬灯だ。
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