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②
私はどういう訳か、若い恋人たちが最近やたらと目につくようになっていた。
若い夫婦ならなおさらの事。
彼らは愛に満ちた瞳で見つめ合い、幼い子供を連れた夫婦にいたっては我が子を真ん中に置きその子を見つめる慈愛の念を互いに感じ合うことで幸せを噛みしめているのだ。
私にも、似たような経験はある。
私は若い頃、高校時代から付き合っていた彼と別れ、彼の同僚の男性と結婚して娘を授かった。
夫は優しく、仕事で多忙な日々の中でも育児に追われる私をいつも気づかい、子育てはもちろん家事全般にも協力的だった。
いわゆるエリートで年収も良く、「結婚するならこういう男性」の見本みたいな素晴らしい人だった。
――――だった。
けれど、夫はもうこの世には居ない。
娘の4歳の誕生日の夜、夫は殺されてしまったのだ。
私と別れた彼の手によって……
当時、週刊誌はこぞって「三角関係から生まれた怨恨」だの「エリート社員の成れの果て」だのと書き連ねていた。
まだ彼と付き合っている時から夫と関係していた私を「魔性の女」と書く記事も少なくはなかった。
義母は息子が死んだのは私のせいだと罵倒し、息子を亡くした悲しみと怒りの全てを私にぶつけ、私から娘を取り上げた。
私には、母親の資格はないと――
19年前、私が彼と別れた理由は夫との浮気がバレてしまったからだった。
5年付き合ってきた彼は出世欲が強く、私よりも仕事を優先するタイプの人だった。
私は彼に嫌われたくない一心で淋しさや不満を決して伝えず、表に出さず、
ある日、以前より私に好意を抱いてくれていた夫とほんの出来心で一夜を共にしてしまった。
それがきっかけで私たちは彼に内緒で逢瀬を重ねるようになり、いつしか私にとって夫は、淋しさを紛らわす存在からそばに居てくれる大事な存在へと変わっていった。
正直に早く打ち明けていれば良かったものを、私たちはなかなか彼に言い出せず、バレてしまうまで彼をだまし続ける結果となった。
でも、まさか……
彼が夫を手にかけるなんて、思いもしなかった。
あの時だって、彼は私を止めるでもなく潔く身を引いた。
まるで私を厄介払いできたかのように……
彼はプライドの高い人だったので、自分の彼女を奪われた嫉妬や失恋の辛さなどは一切なく、ただ同僚と彼女に裏切られていたその事実だけが許せないようだった。
それなのに、彼が夫を……?
それも、4年も経ってから……
いったいどうして……
どうしてなのかは分からない。何も分からないままだ。
何故なら、彼は殺人容疑で指名手配されながらも逃亡し、いまだに捕まっていないのだから。
あれから15年――
私はこの15年、平穏な生活は送れず常にドキドキ緊張しながら暮らしてきた。
いつか、彼が私の前に現れたらどうしよう……と。
優しい夫と可愛い娘、何もかもを失くした私は誰にも頼らずたった一人で生きてきた。
現在でもそうだ。
私の人生を狂わせた彼は、とうとう最後まで逃げ切り、念願だったであろう自由を手に入れた。
人一人を殺めておきながら――
彼は自由になったのだ。
私はこれからますます平穏には暮らせない。
心臓のドキドキは、いや、バクバクは悪化するばかりだろう。
――事件が起きた後もそうだった。
夫の死を知り、彼の犯行を知り、私の胸の鼓動は激しさを増すばかりだった。
息が出来なかった。
どうにかなりそうだった。
私の心臓は、歓喜のリズムで高鳴っていた。
―― ――歓喜だ。
夫の死には悲嘆したが、私はそれ以上に、彼にそこまで思われていた喜びで息が出来ないほど高揚し、どうにかなりそうだった。
彼にとって私は、どうでもいい女ではなかった。
厄介払いされていた訳ではなかった。
彼はちゃんと夫に嫉妬し、私と別れて辛い気持ちを4年間こらえてきたのだ。
4年間も――
人一人を殺めるくらい、彼は私を忘れられずに苦しんでいたのだ――!!
15年たった今も、私の心は若い娘のようにドキドキしていた。
晴れて自由になり、今度こそ私の前に現れてくれるかもしれない彼を待ちこがれ……
目の前を通り過ぎる、若者たち――
腕を組んで寄り添い、未来を語り合う恋人や、真ん中に小さな子供をはさみ、手をつないで歩く夫婦。
あなた達は本当に愛し合い、信頼し合っているのだろうか。
あなた達の一途なまなざしは本物なのだろうか。
本当に、あなた達は幸せなのだろうか。
そしてその幼い子供たちは、真に愛の結晶なのだろうか……
もし、その愛が見せかけであるならば、ニセ物であるならば、勇気を出して真実の愛を求めてほしい。
たとえ悪者になったとしても。
恐れずに。
昔の私には持てなかった勇気だから……
私はこの悲劇の物語のヒロインでありながら、悪女でもあった。
前途有望な男性二人を天秤にかけ、夫と結婚して温かい家庭を守りつつ、実際は別れた彼を思い続けていた。
娘の事は心から愛していたが、私が産んだ私の子だからこそ愛しかったのだ。
その娘は今頃、ちょうど思春期の真っただ中だろう。
娘はまだ、“アレ”を持っているのだろうか。
私はふと、夫が娘に遺したバースデープレゼントを思い返す。
紙袋に入っていたプレゼントは、夫を殺害した凶器と共に捨てられていた。
走馬灯のようなオルゴール。
刑事さんの話では、オルゴール本体とハンドル部分に犯人である彼の指紋がついていたらしい。
かなり震えていたのか、はがされた包装紙はあちこち破れていたそうだ。
夫はきっと、娘の満面の笑顔を想像して愛情いっぱいであのオルゴールを買ったことだろう。
殺される瞬間まで、夫は娘を思い目じりを下げていたのだろうか。
そして彼は殺人者となった後、四季を駆けめぐる馬の影絵をどんな表情で眺めていたのだろう。
警察から戻されたオルゴールのハンドルをつまんでゆっくりと回し、私は馬の影絵を走らせた。
春夏秋冬を何度も繰り返し走らせた。
――私は思い返す。
馬を15周させハンドルを止めた、あの時の私の手のほほ笑みの感覚を。
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