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紫煙の思惑
彰は駅のコインロッカーに入れていたスーツと鞄を取り出すと、ろくに掃除もされていないトイレの中で着替えた。
所々錆びた鏡の前で髪を整えて、ネクタイを締める。
そして、駅の駐車場に停めていた社用車に乗り込むと、急いで会社に戻った。
オフィスに入れば、すれ違う社員が、お疲れ様です専務、と頭を下げるが、酷く気分を害している彰は、嗚呼、と短く答えるだけだった。
デスクに戻っても、この後、紗雪がどんな行動に出るか想像して、苛立たしく指で机をつく。
認知届を書いてしまった以上、養育費の請求は免れない。妻にどう口実をつけて大金を動かせば良いか考えて、何気なくFXについてパソコンで調べていた時である。
「あの、専務……」
茶汲みの部下が、おずおずと声をかけてきた。
「なんだ。急ぎの要件でないなら後回しにしてくれ」
「いえ、社長から専務をお呼びするようにと言付かりまして」
つい、はあ、と溜息をついて額を抱えた。
全てのタイミングが悪い。
まだ、今日すっぽかしたクライアントとの商談の言い訳も考えていなかったのだ。
「分かった、直ぐに行く」
FXの画面を閉じて、万年筆とスケジュール帳を携えて、彰は社長室へと足を運んだ。
木目の豪奢な彫り込みが施された厚いドアをノックする。
「よろしい、来たまえ」
中から、低い声が聞こえてきて、彰は社長室の戸を開けると中に入って直ぐに戸を閉めた。
「失礼いたします。お呼びですか、社長」
白髪を七三に分けて固めた老紳士は、ガラス張りの窓から見えるビル群を眺めながら、黒い牛革の椅子に深々と腰をかけていた。
それから、暫くの沈黙の後に言葉を発する。
「我が社のオフィスより背の高い会社が幾つあるだろう。君は我が社の専務としてどのように考えているね?」
「それは勿論、我が社の社会へ対する貢献は大きく、その名に恥じぬような経営をしていこうと考えております」
「ほう、随分立派な事を言うじゃないか」
社長はしわがれた手で一束の書類を掴み立ち上がる。
そしてゆっくり、彰の目を見据えながら歩み寄っては、その束を彼に投げつけた。
「ならば、何故、大手との商談を台無しにしようとしたのか、聞きたいね」
眉間に深い皺を寄せて、伊集院社長は凄んでみせた。
彰は直立不動のまま舞い落ちる書類を見た。それは、今日すっぽかした会社との商談の内容だった。
「私が行ったよ。聞きたいのは、君がこの商談を蹴ってまでやりたかった事が何かという事だ」
彰は冷や汗を流しながら、生唾を飲んだ。
そして、できる限り平静を装って、社長の問いに返す。
「恐れながら、私の意見を申し上げますと、新規の顧客獲得について営業部が近ごろこれと言った成果をあげていません。このままでは事業の範囲が狭まってしまう事を懸念して、新規顧客へのアポイントメントを取りに行きました。それが、運悪く此方のクライアントとのお約束と僅かに重なってしまったので、日程の変更のご連絡を差し上げた次第でございます」
「商売というのはね、信頼なんだよ、五十嵐くん。一度約束したものを此方からキャンセルするのはご法度だ。よく覚えておきたまえ。今後、このクライアントとは私が直接交渉をする。そして君がそこまでして掴みたかった商談内容については、明後日、役員会議にて発表してもらう事にしよう。内容によっては、君の進退も考えなくてはならんからな」
そう言って、老紳士は踵を返し、また黒革の椅子に腰掛けた。
彰は散らかった書類をかき集め、応接用の机に纏めて並べる。
頭の中では、明後日までに新規顧客を獲得しなければならない重圧で潰れてしまいそうだった。
然し、会社の名前を借りれば契約を欲しがる中小企業等五万といると考えて、なんとか自我を保っていたのである。
「……社長」
「もういい、言いたい事はそれだけだ、早く仕事に戻りたまえ」
彰の続けたい言葉を一刀両断するように、社長は切り捨てた。
すっかり背中が小さくなってしまった彼は、深々と頭を下げながら、社長室を後にする。
静かに扉が閉まってから、伊集院は普段は吸わない葉巻を引き出しから取り出すと、マッチで火を着けて、ふぅ、と深く吸い込んだ。
それから、固定電話の受話器を取り、電話をかける。
相手は、直ぐに応答した。
「準備は整った。お前の好きにするといい」
それだけ伝えて、軽く相槌を打ち、電話を切る。
葉巻が焼ける微かな音だけが部屋に響いていた。
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