宴の始まり

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宴の始まり

 承知致しました。では、私も今日はお友達とディナーに行って参りますね。お食事はお外で済ませて下さっても構いませんわ。  桜子は彰にそう返信すると、紗雪の運転する車で外車を取り扱っているディーラーに向かった。  店内には、美術品でも取り扱うかの如く並べられた高級車がウィンドウから差し込む光を跳ね返して輝いている。  真里はきょとんとしていたが、桜子は店内に入ると、すぐさま店員を呼び止めて言う。 「この店で一番高いお車はどちらになりますでしょう?」  先程まで号泣していた女とは思えない程和かな笑顔に、紗雪と真里は空恐ろしさを感じると共にほくそ笑むのだ。  あまり聞かれることのない質問に少し狼狽える店員は少々お待ちくださいと言ってから、真っ赤な車の前に桜子を案内する。 「此方のランボルギーニ・ヴェネーノになります。お値段は四億円になりますが……」 「買いますわ。銀行口座から引き落として頂きたいんですの」  桜子は、彰名義の通帳とカードをチラつかせた。 「夫に贈りたくて」  贈るの真の意味を知っている紗雪と真里は笑いを堪えて肩を震わせた。  桜子の父のお陰で重役に席を置いている彰の通帳と実印で、高級外車を買うのにさして苦労はなかった。 「あの人、お金の管理は全部私に任せているんですの。納車が楽しみですわね」  帰りの車の中で、桜子は満面の笑みで言った。  年代物のワインを買ってから、紗雪の暮らすマンションに着くと、三人は宴の始まりを祝うかのように真っ白な画用紙を広げて、其々、好きな色のペンでどうしてやりたいかを書き始めた。 「まずはさ、アイツの小っ恥ずかしい無様な格好を見たいわよね」  真里がワインを一気に煽りながら、コーラルのペンで二、三行書き連ねる。 「私は妻の権限を利用して、逃げられない追い詰め方をしたいですわ」  桜子がオリーブ色のペンで、大きく枠で囲って一言書いた。 「なら、私は精神的に追い詰めましょうか。正気でいられない程に」  紗雪がネイビーのペンで一言書くと、真里と桜子は手を叩いて笑った。 「なにそれ、最高じゃん!」 「ざまぁありませんわね」 「知り合いに伝手があるので、赤っ恥かかせてあげましょう」  コーラルとオリーブとネイビーの文字が連なれば連なる程、三人は笑顔を交わし、程よく酔いも回ってきて、まるで修学旅行の計画でも立てている女子高生のようにはしゃぐ。  ワインを二本開ける頃には、すっかり日も暮れて、真っ白だった画用紙には3色の怨念に満ちた文字列がびっしりと並んでいた。 「あたしはねぇ、こう見えて一途なのよ。だから、今まで五年間浮気した事ないんだからぁ」  些か悪酔いした真里が、紗雪の肩に頭をもたれさせて言った。  紗雪はあどけない幼児のように泣きながら真里の手を握る。 「私だってぇ、一途だったんですぅ、時間を返して欲しいですぅ、三年あったら何が出来たと思いますかぁ、ううっ」  顔を真っ赤にした桜子が二人を抱きしめて、聖母のような口付けを額に落としながら。 「二人とも大丈夫ですわ。だって、可愛いんですもの。私なんかバツがつくんですわよ?なんて事ありませんわ」 そう言えば、三人は固く抱き合い、小一時間、互いの良い所を述べ合った。 「お、お客さん、だいぶ酔ってるようですけど、帰らなくていいんですかい?」  真里が彰と約束した場所に向かう道すがら、タクシーの中で酒の匂いをぷんぷん漂わせながら、紗雪と桜子は彰を尾行した。 「いいんですのよ。お金なら幾らでも払いますわ」  ひっく、と声を上ずらせながら、桜子が言う。  紗雪はまだ泣いていた。元来、酔うと泣き上戸なのである。 「そうなのぉ、いいのぉ、追ってぇ」  持ってきたハンカチはもうびしょ濡れで、桜子がよしよしと言いながら自分のハンカチで紗雪の鼻汁を拭う始末である。  約束の時間から五分遅れて、彰はやってきた。  無論、真里のハンドバッグには盗聴器を仕掛けており、桜子が録音機を持っている。 「やあ、ごめんね、真里、お待たせ」 「お待たせ過ぎよ!もう、真里寂しくて先に飲んできちゃったんだから!」  流石は女優の卵でなだけあって、真里は先程までの女子会等お首にも出さぬ素振りで彰の腕に腕を絡めた。 「そうなのかい、それは済まないね。真里も出来上がってるし、ホテルにでも行く?」 「やーだ!マリ、カカシが見たい!」 「案山子?」 「そう、んふ、田んぼにあるカカシさん。オズの魔法使い思い出して見たくなっちゃったのぉ!」  真里の笑顔は何処までも無垢、に見えた。  否、恐らく事の真相を知っている桜子と紗雪以外が見たら、ただ酔っ払って駄々をこねてる彼女にしか見えないであろう。 「覚えてる?私が魔法とか御伽噺大好きなの、知ってるでしょ?遅刻したんだもん、我儘聞いてくれてもいいじゃない」  真里が彰の腕に豊満な胸を押し付けた。  彰はやれやれとでも言わんばかりに頭をかいて苦笑する。  彼女のくだらない我儘を叶えてやればご褒美が待ってるとでも考えたのだろう。 「仕方ないなぁ、いいよ。案山子見たらホテルに行こうね」 「うん!」  彰が手を上げてタクシーを止める。  二人が乗り込んだのを確認すると、桜子と紗雪を乗せたタクシーも後に続いた。  時にして十五分くらい走ったであろうか。  今にも消えてしまいそうな頼りない明かりがポツリと灯る水田の近くに、タクシーは停まった。 「ほら、真里、案山子だよ、見てご覧」 「えー、マリよく見えない、ねえ、降りようよー」  言うが早いか、真里はタクシーから降りてふらふらとおぼつかない足取りで畦道を歩く。  彰はどんどん遠くに行く真里を追って、タクシーを降りた。 「真里!案山子はそっちじゃないよ!」 「んへ?」  丁度、桜子と紗雪が乗ったタクシーから様子が良く見える様な位置まで来たところで、真里は足を止めた。  そして、艶めかしい声で彰の名を呼ぶと、そっと手を引く。 「ねえ、ここでキスして」  酔った真里の目はとろんとしていて、彰の欲情を唆るには充分だった。  蛙の声がこだまする畦道の真ん中で、彰は生唾を飲んで真里を抱きしめようとする。 「いいよ、今日の真里は随分とエッチな顔をするんだね」  彰が真里の唇を捉えようとしたその時だった。  真里は酔って足がもつれる素振りをしながら、彰の口付けを躱したのだ。  勢い余った彰は頭から田んぼに突っ込んでいく。  田んぼの泥が飛び散って、彰の体は泥の中に埋まってしまった。 「いやぁぁ!彰が死んじゃうぅ!」  泥まみれになった彰の後ろで、真里は女優魂を見せつけるかの如く発狂して叫んだ。  同時に警察と救急車を呼ぶ。 「もしもし!私のダーリンが死んじゃいそうなんです!直ぐに来て!」  無論、地名を言うのも忘れない。 「彰ぁぁ!死なないでぇ!」  真里は彰の靴を掴んで引っ張る。  騒ぎを聞きつけたタクシー運転手と近隣の住民が集まってくる前に、助けそびれたと見せかけて彰の靴を反対側の田んぼに放り投げた。 「ぶえほっ!真里!大丈夫だから!俺は大丈夫だから!」  騒ぎを起こさないで、の一言をすんでの所で飲み込んだ彰が、体を張ったお笑い芸人さながらの格好で起き上がった時には、周りは人集りでいっぱいだった。 「どうしたね?あんれまぁ、泥田坊みてぇになっちまって」  腰の曲がった老人が杖をついて出てきて言った。 「彰ぁ!生きてるの!?死んでない?!」  真里が呼んだ警察と救急車のサイレンが響く。  辺りは騒然として、泥まみれの彰は注目の的になった。 「死んでないよ、真里、大丈夫だから」  警察と救急隊員が彰の元へ駆けつける。 「大丈夫ですか!」 「大丈夫です!」 「そうですか。念の為、身元を確認出来るものを提示していただきたいのですが」 「あー、いえ、それは、無いので、大丈夫です」  顔についた泥を手で拭って払いながら、彰はタクシーに戻ろうとする。 「お客さん、そんな格好で乗られちゃ困りますよ」  それを、運転手が阻んだ。 「救急車か、パトカーで帰ってもらわないと。あ、ここまでのお代は払ってくださいね」  渋々、彰は泥まみれのポケットから財布を取り出して、運転手に代金を支払った。 「ん?あるじゃないですか、免許証」  警察官は、それを見逃さなかった。 「お怪我もなく事件や事故でないようでしたら、此方でご自宅までお送りしますけれど」  訝しげな警察官に情けない顔を覗き込まれて、彰は長い沈黙の後に、はい、とだけ答えた。
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