追撃

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追撃

 少し離れた所に停車しているタクシーの中では、桜子がヒーヒー声を上げて笑い、紗雪は可笑しさのあまり足をばたつかせていた。 「ご覧になりまして?」 「ええ、見ました。あれでタクシーに乗ろうとする頭の悪さったらないですね」 「ガマガエルも吃驚なくらい泥がお似合いです事」  桜子が、カメラのフォーカスを合わせて、無様な彰の写真を撮る。 「アキラぁ、ごめんねぇ、でもマリの事嫌いにならないでね。マリはタクシーで帰るよ」 「嗚呼、分かったよ。大丈夫さ、少し大袈裟だけど、真里の愛は伝わったからね」  口の中にぬめぬめと入り込んでくる泥を田んぼに吐いて、彰はパトカーに乗り込む。  その表情は泥まみれで窺い知れないが、恐らく不服の一言がよく似合う顔でもしているのであろう。 「じゃあね、アキラ。また連絡待ってる」  真里はほろりと涙を一雫零して手を振った。  彰を乗せたパトカーが見えなくなるまで手を振り続けて、ふふっとほくそ笑むと、タクシーのドライバーに千円札を渡しながら。 「ありがとう。これはチップよ。私は別のお車で帰るから、この後もお仕事頑張ってね」  ウィンクしながら、そう言った。  運転手は渡された千円札を握ったまま、はぁ、と締まりのない返事をして車に戻り、再び来た道を引き返す。  野次馬もちらほらと家路に帰り始めた頃、真里は軽やかな足取りで、桜子と紗雪が待つタクシーに戻り、笑い過ぎて腹を抱えてる二人を見て、ここまで堪えていた笑いを爆発させるかのようにゲラゲラと声を上げて笑うのであった。 「もう、最高ね」  運転手は何か察した様子だったが、触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに、後部座席の三人の会話には触れない。 「それで、この後は何方へ?」  それだけ尋ねて、前を向いた。  三人は、紗雪のマンションの住所を伝えると、マンションに着くまでの間、真里の演技の凄まじさと彰の醜態について語らい尽くした。  マンションに着くと、三人は紗雪を中心に川の字になってベットに倒れ込み、くすくすと笑い声をあげる。 「今頃、サクラの居ない家でホッとしながらスーツの泥を洗い流してるでしょうね」 「洗ったところで、もうあのスーツは着れませんわ。あんな事になってしまったんですもの」  真里と桜子が視線を交わし、ぷっと吹き出す。 「ふふ、次は私の番ですね」  紗雪は携帯電話を取り出し、彰宛にメッセージを送る。  両脇の二人はそれを覗き込みながら、お転婆な女の子みたいな意地の悪い顔で笑った。  彰さん、先日はつい打ってしまってごめんなさい。お話したい事があるんです。お電話してもよろしいですか?  彰からの返信を待っている間、三人は手を繋いで目を閉じていた。 「思うんだけどね」  ポツリと真里が呟く。 「あたし、サクラとサユに出会えて良かったよ。悪く言っちゃえば傷の舐め合いなんだろうけどさ、あたし達は無力じゃないんだって、生きる希望になったから」  紗雪がぎゅっと真里の手を握り返して応える。  桜子はそっと瞼を開けて、返すように呟いた。 「私もですわ。お二人に会えなければ、ずっと騙されたまま、何もかも奪われる手前だったんですもの」  その時、紗雪の携帯電話が震えた。  紗雪はすぐさま返信を確認する。  俺もごめんね、紗雪。今ちょっと取り込んでるんだけどさ、嫁もいないし、今なら電話できるよ。  三人がにやりと口角を上げたのは同時だった。  紗雪はベットから起き上がると、慣れないバーボンをロックで一杯飲み干して、桜子と真里の元に戻りながら言う。 「絶対笑っちゃうと思いますけど、堪えてくださいね、私も堪えます」  二人がしたり顔で頷いた。  ものの二分も経てば、紗雪の耳朶が真っ赤になる。  視界がぼやけて、特に理由もないのに、涙が溢れてきた。  紗雪は、子供の頃にテストで悪い点を取った時に母に説教された時の事を思い返しながら、ううっ、と啜り泣く。  そして、彰の番号へ電話をかけるのだった。  三コール程した所で、彰が電話に出た。  紗雪はただ泣いたまま、携帯電話を耳に当てる。 「紗雪?…‥泣いてるの?どうした?」 「私……うう、ごめんなさい、彰さんにしか相談できなくて」 「何があったんだ?聞くよ、話してご覧」  電話口の向こうで、ざぁぁ、と水の流れる音が聞こえて来る。  真里と桜子の予想は大当たりだった。  紗雪はひとしきり泣いた後、消え入りそうな声で言う。 「あのね……私……妊娠したんです」  受話器越しに、彰が携帯電話を取り落としたような、ガタンという音が聞こえてきた。  長い沈黙の後に、彰が重い口を開く。 「それ、本当に俺の子?」 「当たり前じゃないですか!私、浮気なんかしてませんもの!」  泣き上戸が拍車をかけて、紗雪は電話口でわんわん泣く。  受話器の向こうから、ボソッと、困ったなぁという彰の声が聞こえてきた。 「君はさ、弁護士だろう?分かるよね?俺との関係がバレたら、嫁が君に慰謝料を請求する。そうなったら、困るのは君だろう?賢い君なら、どうすべきか判断出来ると思うけど」 「ご存知ですか?強姦罪は五年以上の有期懲役なんですよ。貴方も聡い方ですから、私との合意の上の行為の痕跡なんて残していないでしょう?ここまで言えばお分かりになると思いますけれど」  電話口で彰が溜息をついた。  真里はそのやり取りを聞きながら紗雪の隣でハンカチを噛みちぎらんばかりの勢いで噛んでいた。 「俺を犯罪者にしようって言うのか?」 「貴方が認知して下さらないなら、それも視野に入れています」 「俺にどうしろって言うんだ?」 「明日、産婦人科に行きますから、ご同行してください。そして、認知して、奥さんと別れて責任を取ってください」 「それはできない相談だ。明日は大事なクライアントとの商談があるし、妻とは別れられない」 「でしたら、警察に行ってきます。DNA鑑定をすれば、一発で貴方は刑務所行きですが、悪しからず」 「待て、早まるな、紗雪」  ぶちっ、と紗雪は通話を切った。  即座に、彰が折り返し電話をかけてくる。それから酷く狼狽えて呂律の回らない口で。 「さ、紗雪、妻との離婚は直ぐできないけど考えるよ。あ、明日は産婦人科に一緒に行くから、頼むから警察はやめてくれ」  そう頼み込んできた。 「…‥わかりました。では、午後一時から予約しますので、ちゃんと来て下さいね。来なかったら警察に行きますから」 「行くよ、約束する!」  余裕のない彰が上ずった声で言ったのを確認すると、紗雪は通話を切った。  ぽいっと、ベット上の棚に携帯電話を放り投げて、桜子と真里を交互に見る。 「どう思います?」  真里は遂にハンカチをビリッと噛みちぎった。桜子は額に手をあてて首を振る。  最低。と三人が口にしたのは同時だった。
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