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隠れゆく太陽
翌日、約束の時間の十分前から、彰は指定された病院の前で、爪を噛みながら右往左往していた。
まるで別人の女のように変装した真里と、男装をした桜子が、イラついた様子の彰を素通りして先に病院に入るが、彼はすれ違う人から隠れるように背を向けた。
木枯らしが風に飛ばされてアスファルトを転がる。
それから、きっかり一時に紗雪は泣き腫らした顔で車を運転して、約束の場所に現れた。
いかにも消沈した顔で車から降りると、彰の元へと歩み寄る。
彼は彼女の顔を見ると、バツが悪そうに視線を逸らした。紗雪は下腹部に手をあてて、彰に向き合い、暫くじっと彼の顔を見つめていた。
「おめでとう、の一言もないんですね」
重苦しい沈黙が流れる。
紗雪がまた瞳を潤ませると、ようやく彰は彼女を抱きしめた。勿論、彼女がここで昨夜のように大泣きしてしまわないようにしただけだという事を知りながら、紗雪は彰の背にそっと腕を回す。
「ごめんなさい、私……」
真里ほど上手くは演技出来ない事を自覚して、紗雪は中学生の時に書斎で弁護士の父の六法全書にコーラを溢してしまって玄関に正座させられた事を思い出しながら、さめざめと泣いた。
「いいよ、もう」
彰は顔を顰めてぶっきらぼうに言う。
そのまま、紗雪の肩を抱いて、人目を気にするように辺りを見回してから、病院に入った。
受付に立つと、黙って診察券を出して、つい笑ってしまいそうになる表情を隠すように、紗雪は両手で顔を覆った。
「一時からご予約の木ノ本様ですね。少々お掛けになってお待ちください」
看護婦に案内されて、紗雪は無言で頷いて待合室のカウチに腰掛ける。
彰は、フードを目深にかけて、普段はしない伊達メガネのフレームを気忙しく弄りながら、紗雪の隣に腰掛けた。
その少し後ろの席で、真里と桜子はベビー雑誌を見ているフリをしながら、二人の様子を伺っていた。
「何あの人、まるで泥棒みたい」
「こら、聞こえちまうぜ」
声色を変えた真里に、声を低くした桜子が言う。
聞こえたのだろう、彰は、ちっ、と舌を鳴らした。
程なくして、診察室の方から名前が呼ばれる。
虫の居所が悪い彰は、紗雪よりも先に席を立ち、そそくさと診察室に入った。
紗雪はもう吹き出してしまいそうになるのを堪えて、未だに顔を手で覆って、その後に続く。
「担当医の笹山と申します。どうぞ、ご主人も此方へお掛け下さい」
黒髪をオールバックに固めた痩せ型の医師は、そう言って彰を椅子に座らせた。
「今日は、胎児の発育の確認と今後の方針についてのお話ですね。木ノ本さん、其方の寝台に横になって服を捲ってください」
「はい」
紗雪はパンプスを脱いで、寝台に仰向けになって腹に息を溜めてシャツのボタンを外す。
笹山は、白くなだらかな腹部にジェルを塗って器具を当て、エコーの画像を彰に見えるようにして指を差した。
「順調ですね、十九週くらいでしょうか、ほらここに手があるのが見えるでしょう?まだ男の子か女の子かは分かりませんが、確り育っていますよ」
笹山は器具の動きに合わせて解説しているように見えるが、これは全く赤の他人のデータなのである。
彼もまさか、一時停止無視の車に追突された時に賠償請求をした際に知り合った弁護士からこんな突拍子もないお願いをされるとは思っていなかった。
然し、紗雪の弁護のお陰で、目撃者もいなくて言い逃れされそうな事故の裁判できっちり賠償金を頂戴したのである。彼としては恩返しのつもりなのだ。
彰はそんな事とは露知らず、笹山が指す画面を直視できなくなって目を逸らした。
「良かった……」
顔を手で覆ったまま、紗雪がまたほろりと涙を零す。
「本当に、元気に育っててくれて何よりですね、奥さん。嗚呼、それから、お気を悪くされないで下さい、皆様に念の為お伺いしていることですから。もしも堕胎されるご意向でしたら、二十二週未満でないと法律で禁止されています。このまま、ご出産の予定で間違いありませんね」
「いえ」
「はい」
言いかけた彰の言葉を捻じ伏せるように、紗雪は言葉を被せた。
事情を知っている笹山は、いかにも不思議そうな顔を彰に向けて尋ねる。
「ご主人…‥今なんと?」
彰は下唇を舐めてぐっと歯で噛み締めると同時に、膝に置いた拳を握り締めた。そして、笹山と紗雪の顔を交互に見る。
紗雪の視線はまるで氷柱のように彰を突き刺していた。
「実は、私達……」
「産みます、じゃない、産んで……その、出産の予定です」
目を泳がせて、酷くしどろもどろになりながら、彰は紗雪の無言の脅迫に屈した。
「そうですか。では、また二週間後に来てください。その頃には、男の子か女の子かも分かる筈ですよ」
笹山が紗雪の腹をウェットティッシュで拭い、キャスターのついた椅子を転がしてデスクに向かっては、診断書に記入をする。
紗雪はシャツのボタンをとめて寝台から起き上がり、看護師が手渡す母子手帳を受け取りながら和かな笑みを浮かべる。
「きっと可愛い赤ちゃんが生まれますよ」
「ええ、ありがとうございます、大切に育てますね」
最早、彰は誰に向ける顔もなく、俯いたままだった。
診察が終わり、待合室に戻ると、紗雪はバックから一枚の用紙を取り出して、彰に渡した。
「今、ここで書いてください」
用紙には、認知届と書いてあり、彼はその文字を見た途端に、顔を青ざめさせていく。
「今度、書いて渡すよ。ここじゃなくても良いだろう」
「いいえ、今、ここで書いてくださらないのなら、即刻警察に電話します」
はあ、と溜息をついて彰は額に手を当てる。
届出用紙には既に子の名前の所に、木ノ本奏、と書いてあった。
「もう名前も決めているのか?」
「男の子でも女の子でも良いように配慮してあります。まさか、貴方が決めたかったんですか?」
「いや、それは」
「堕ろそうとしたのに?」
紗雪と彰の会話を聞いて、待合室に言わせた妊婦達から、冷ややかな視線が彰に向けられる。
目の前にいる紗雪の視線は、一層冷たく、極寒の銀世界に裸で立たされているようだった。
桜子と真里は雑誌で顔を隠しながら、ちらりと様子を見てほくそ笑んでいた。
「分かった、書くから、よしてくれ」
紗雪が渡すペンをひったくって、彰は隠れるように部屋の隅のチェストで書類に記入しだした。
会計が終わるまで、紗雪に横から口出しされながら、彰は欠くことなく用紙に全てを記入し終えた。
書き終えた用紙を受け取ると、紗雪はそれをバックに仕舞って、彰を連れ立って病院を出る。
「それじゃあ、また二週間後にお会いしましょう」
「無理だよ。今日だって仕事をすっぽかして来たんだ」
「あら、いいんですか?帰る家が冷たいコンクリートの鉄格子の中になっても」
嗚呼、と言葉にならない嘆きを垂れて、彰は空を仰いだ。
何物かを隠しているような大きな雲が、太陽を遮っている。
「分かったよ、来るよ、来れば良いんだろ」
「ええ、ではまた」
紗雪は来た時と同じように下腹部に手をあてながら、もう片方の手を振った。
「嗚呼」
彰は銀杏の並木が植えられている歩道をとぼとぼと歩いてバス停へと向かう。
途中、フードの上から頭をかき、やり場のない感情をぶつけるように、街路樹を蹴った。
葉の上で寛いでいた毛虫が彰の頭に落ちる。彼はそんな事にも気付かずに俯きながら、その姿はどんどん小さくなっていった。
変装していた桜子と真里が病院から出てきて、電柱の後ろに隠れながらその様子を見る。
「ふふ、証拠が増えましたわね」
「ええ、こんなの罪を自白しているようなものです」
「改めて最っ低ね」
三人は踵を返すと、紗雪の車に乗り込む。
「次はいよいよ、お仕事ですわね」
桜子が携帯電話を取り出して、電話帳をスクロールした。そして、電話をかける。
「……もしもし、お父様、ご機嫌よう、今、少しお時間よろしいかしら?」
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