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***
後ろから、カスミを呼び止める声がする。けれど、カスミは振り向かなかった。風が止み、血まみれのユリを見た途端、耐えきれなくなった。
自分はなんてことをしてしまったのだろう。もう、ユリの隣に立つことなんてできない。ユリの美貌に傷をつけてしまったのだ。痕が残るかもしれない。
いや、残らなかったとしても、ユリは絶対に自分を許さないはずだ。自分に刃向かった人間をユリは潰しにかかるだろう。あいつにしたよりも、もっと残酷に。
「うぅ……なんで、こんなことになっちゃったのよお……」
傷だらけのまま、あてどもなく歩く。街行く人は傷ついたカスミに気がつかない。気づいても、そっと目を逸らすばかりだ。厄介ごとに巻き込まれたくないのだろう。
誰も味方なんかいない。スピカだって、また守ってくれなかった。彼は嘘吐きだ。信じた自分がバカだった。
レオも同じだ。なおもユリを傷つけようとする自分を止めてくれたけど、もっと早く止めてくれたら、ユリを傷つけずに済んだはずだ。
「どうして、誰も、あたしを助けてくれないの……」
傷が痛む。血が止まった箇所もあったけれど、まだじくじくと痛んだ。俯いたまま歩くカスミは、不意に視線を感じて、顔を上げた。
数メートル離れた物陰から、あいつがこちらを凝視していた。学校の制服を着て、長い前髪の隙間から恨みがましい陰険な目つきで睨んでいる。足が竦んで動けなかった。
「……なんで、いるのよ」
発した声はしゃがれていた。あいつはじっとりと睨んだまま、動こうとしない。
「あ……あぁ……」
今度こそ、あいつに殺される。スピカも言っていた。彼女を退室させただけだと。追い払われたあいつは、自分を殺しに来たのだ。あいつがゆらりと動く。
瞬間、カスミは弾かれたように走り出した。誰かにぶつかろうとも、足がもつれて転びそうになっても、走り続けた。追いつかれたら、死ぬしかないのだ。
「いや……死ぬのはいや……」
カスミはひたすら走った。けれど、ついに力尽き、歩道の脇に座り込んでしまった。息が切れる。足は動かない。恐る恐る辺りを見回す。あいつの姿はなかった。
「あは、あはは……」
カスミは笑った。何がおかしいのかわからない。ともかく、おかしくてたまらなかった。けらけらと笑い続けたあと、不意に口を噤んだ。
ゆっくりと立ち上がる。走ったせいで、足は棒のように疲れていた。けれど、歩けないほどではない。カスミはふらふらと歩き始めた。横断歩道の前で止まる。信号は赤だ。夜のためか、交通量は多くない。
さっさと帰ろう。家に帰って、お風呂に入って、寝よう。寝て、起きれば、元通りの日常が始まるはずだ。学校に行けば、ユリがいて、声を掛けたら「おはよ」と返してくれるはずだ。「どうしたの、その傷」と心配してくれるはずだ。そうしたら、笑って答えよう。転んじゃった、と。ユリは「そそっかしいわね」と呆れて、「気をつけなさいよ」と言って――
どんっと背中に衝撃があった。誰かに押されたような、不自然な衝撃だった。
咄嗟に振り向いた先には、あいつがいた。学校の制服を着て、長ったらしい前髪の隙間から陰険な目つきでカスミを見て、にたりと笑う。その口元には目立つほくろが……なかった。
「あ、れ……」
散々揶揄ったほくろが、なかった。疑問に思うよりも前に、次に来た強い衝撃で思考が霧散する。カスミの体はぽおんと宙を舞い、ぐしゃりと地面に叩きつけられた。
いた、いよお……
訴えようとした口から出たのは大量の血だった。ごぷりと嫌な音を立てて血を吐き出す。動かない。手も足も。あいつから、逃げないと、いけないのに。
遠く、サイレンの音が聴こえてくる。
ああ、でも、ここで、死んだら、あいつは、もう、追いかけてこない、よね……
カスミは安堵の笑みを浮かべた。
あいつに殺されるなんて、癪だもん。ざまぁみろ!
意識が遠のき、視界が暗くなる。事切れる最期の瞬間、「次はカスミの番ね」
――声がした。あいつの声が。はっきりと。
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